七月三十一日 姉妹ふたり

 八月も間近に差し迫った朝の八時半過ぎ。

 外ではすでにセミ達がやかましく鳴いていた。暑さでつぶれた饅頭のようになっているルナを尻目に、眠たい目を擦りながら支度をした僕は春日かすが家を目指した。

 姉さんから昨夜急な呼び出しが掛かっていたのだ。

 到着し家に上がる頃にはすでにお茶菓子が準備されている。そのうえ、これまでとは彼女の雰囲気が違うように思える。


「さあここに座って」

「あ、はい。敷居跨ぎます。正面失礼します……」


 すっかり片付いて整えられた部屋に、台所の蛇口から水滴が一粒落ちる音が響いた。

 僕はまるで蛇に睨まれた蛙のようだ。落ち着き払った佇まいから放たれる、彼女の目力の強さからは到底逃れられそうにない。きっとこの後僕は怒られるのだろうと、ひろのこれまでの経験からすぐに悟った。

 しかしながら、何かをしでかしてしまったのかどうかについては疑問符が残ったままだ。以前ならともかく、現時点においては心当たりがまったくと言っていいほどないのだ。


 向かいからさあ、さあと迫り来るままに勧められお茶を一飲み、さささと出された茶菓子を一噛み二噛み。

 もちろん口の中では味などしないし、生きた心地なんてするはずがない。

 おまけに緊張やらなにやらで口内は急速に乾燥の一途を辿った。


「あ、あの……。今日は一体?」

 完全にうわずった声で僕はようやく静寂を打ち破る。

「急でごめんね。ちょっと、付き合って欲しいところがあるの」


 あの迫力から一転、にこにこと笑顔を浮かべる姉さんがいた。

 あ、なんだ。怒られるわけじゃないんだ。


「お姉ちゃんの頼みなら断れるわけありませんよ。なんなりと言ってください!」

 それならと安堵とともに二つ返事をした。


「そう、よかった。まーちゃんはね、もっと可愛くなれるの。ね?」

「はい? ちょっと意味が分からないですし、まーちゃんとは一体?」

「まひろちゃんだから、まーちゃんなのよ。もう名前からして可愛いでしょ?」

「それはどうでしょうかね……」

 味覚が段々と戻ってようやくわかった。姉さんはなかなかいいお茶を淹れていた。おまけにさっきの茶菓子も普段の彼女ならこっそりと一人で食べるような代物だ。

 一息がつけたのはよかったのだけれど、姉さんのこの豹変には正直驚きを隠せない。


「ええ、不安になるのもわかるわ。でも安心して。私がまーちゃんをきっちりプロデュースしてあげるからね」

「ぷ、プロデュ? それはどういう意味でしょう?」

「いいから任せてちょうだい」

 得意げに鼻歌交じりに僕をじっと見つめている。

 会話が成立しない時の姉さんは確かこんな風だった。これに対する正解は成り行きに身を委ねること以外にない。

 そして下手に断って変にこじれてしまうのは避けたい。ここでの僕は腹を括るしかないだろう。


「わかりました」

「と言うわけで出掛けましょう! それじゃあ支度してね」

 高すぎるテンションとすば抜けた行動力はさておくとして、元気を取り戻しつつあるのは本当によかったと思う。


***


「こ、こういうのは派手すぎませんか……?」


 一度も来たことのないような、服のお店――セレクトショップと言うのだろうか。僕は今現在連れられて来ている。

 姉さんから提案されたそれは、英字がプリントされた白のトップスに、ダークブルーのジャケット、黒のピンヒール、そして淡いピンクのミニスカートである。

 問題なのはもちろん最後であり、これがかなり際どく攻めていて短い。

 最近ようやく制服のスカートに慣れてきたとは言え、さすがにこれは攻略難易度が高すぎる。


「大丈夫、皆やってる事だよ。それに、まーちゃんには絶対似合うから大丈夫だよ」

「全然大丈夫じゃないですよぉ……」


 姉さんはどうやら僕の服を選びたかったようで、あんなにも乗り気だった理由がやっとわかった。

 祐だった頃には、こういった事はできなかったわけで彼女としては楽しいのだろう。


「これよりもう少しだけ長いのでもいいです……?」

「うーん、そう? でも無理強いは良くないしなあ。じゃあ別の可愛いのにしましょうか」


 この後も衣服だけにとどまらず、コスメショップやアクセサリーショップ、ヘアサロンにまで連れ回された。

 薄々分かってきてはいたけれど女の子というのも色々大変だ。


「うん、思ったとおり。まーちゃん可愛いよ!」

 姉さんもご満悦のようだし、何より生き生きとしている。僕の恥じらいはこの際遠くへ置いておくとして、これはこれで悪くはないのかもしれない。


「ところで……」

 それは昼食で立ち寄ったカフェでのこと。

 ここもいわゆるお洒落な雰囲気が溢れていて、和輝とでは絶対に立ち寄らないようなお店だ。

 今まさに、ふわふわ卵のオムライスとデコレーションが施されたラテアートを目の前にしている。


「まーちゃん、彼氏とか好きな人はいないの?」

「!? ……い、居ないですね」


 思わず咳き込んでしまったが、今の僕はどちらなんだろうか。

 外見は女性そのものではある。けれど内面と言う意識部分は男、のはずだ。

 というのも時々、自分でもどちらかがわからなくなる時がある。

 仮にそういう相手が居たとして、この外見的には男性でないとおかしなことになる。

 ただ内面からするとその相手が男性なのは考えられない。

 何度も自問自答を繰り返したものの、結局これと言った答えは出なかった。


「そうなんだ。和輝君とかはどう? あの子いい子よね~」


 僕は再び、今度は激しく咳き込むことになってしまった。


「まーちゃん大丈夫?」

「……和輝君とはいいお友達ですよ。そういうのは考えたこともありません」

「あら、そうなのね。結構お似合いなんじゃないかなーって思っていたのだけど」


 親友と言う意味でならお似合いと言うのは間違ってはいない。

 間違っても恋愛対象として考えたことはないし、それこそ少し想像しただけでもおかしくなりそうだ。


***


 あれから色々な話をし続け、そうして気がつくと夕方近くにまでなっていた。

 やっぱり姉さんは笑っているのがいい。

 その帰り道。彼女から口数がどんどん少なくなっていくのとともに、僕の様子をちらちらと窺っているように思えた。


「お姉ちゃん、さっきから落ち着かないですね。どうかしたんですか?」

「あのね、ちょっと聞いて欲しいことがあるの……!」

「はい!?」

 家に入ろうというところで、姉さんから扉に詰め寄られぐっと両肩を掴まれた。

 彼女は朝のあの表情に戻っていた。

 突き刺すような鋭い眼光、ドスの効きすぎた低い声。

 本能は直ちに土下座をしろと訴えかけている。

 やってしまったのだろうか。

 僕はこのお出かけ中に、今度こそ何かをしでかしてしまったのかもしれない。


「お叱りはなんでも受けますので……なるべく、なるべく穏便にお願いします」

 そう言うと、姉さんの顔がぐいっと近づいてくる。


「穏便? どうしてそう思ったの?」

「だってお姉ちゃん、朝みたいに怒ってるのかと思って。私なにかしてしまったんですよね……?」

「え? やだ、そうじゃないのよ。でも怖がらせてしまってごめんね。――そっか、私怒ってるように見えたんだ」

 反省反省と呟いて彼女は笑っていた。


「あ、怖いとかそういうことじゃなくて!」

「いいのいいの。じゃあついでに、もう一つ変なことを言うんだけど笑わない?」

 僕は安堵しつつ頷いて返事をする。


「あ、あた」

「あた?」

「頭を、撫でて欲しいの」

「撫、で、る……?」

「そう。でね……『いつも頑張ってて偉いね、ありがとう』ってそれだけ言って欲しいの。あーあ私、何言ってるんだろ。あの子だったら絶対笑って馬鹿にしてるわ」


 姉さんは顔を耳まで真っ赤に染めてもじもじとしている。

 そしてまるで子供のようにこちらの反応を待ち、じっと見つめてくるのだ。

 初めて目にする彼女のその姿に一つの感情が浮かんだ。


「ではいきます」

「はい、どうぞ」

 緊張した面持ちの姉さんはちょこんと頭を垂れた。

 手を伸ばし彼女にゆっくりと触れる。


 自分のことだって大変なはずなのに、「いつも頑張ってて」。

 色んなものを犠牲にしても笑顔でいてくれて、「偉いね」。


 何粒かの雫が地面にぽとりと落ちた。

 うん、うんと小さく頷く姉さんはきっと泣いている。

 彼女が僕の前で涙を流すのは、両親の葬儀以来のことだ。

 誰にも知られまいと気丈に振舞って、たくさんの辛い思いをしてきたのは想像に難くない。

 覚えている限りの、強がっていただろう姿の数々が昨日のことのように鮮やかに蘇る。

 彼女は怒りをあらわにすることが多かったけれど、それはきっと僕を思ってのことだったのだろう。

 ただ。

 褒めて欲しいのなら、はっきりとそう言ってくれればよかったのに。

 それがなんだか、今となってはいじらしく愛おしく、この上なく悔しい。


 僕の姉さんでいてくれて心から、「ありがとう」。


 僕は彼女を抱きしめたまま、平然と言い放つはずの言葉はどうしようもなく震えてしまっていた。

 この人の前で泣いてしまっていいのだろうか。まだ、取り繕うように笑わなくてはならないのではないか。

 けれど、そんな自問自答はすぐに消え去っていった。

 彼女の泣く声が大きくなっていくにつれて、僕は堪らず同じように声を重ねた。これまで抑えていた感情は溢れて、雨粒のようにすべて落ちていった。


「ありがとう、私これからもっと頑張れる。だってまーちゃんがいるもの、ね?」

 赤く泣きはらした瞳が笑う。


「そうですよ、お姉ちゃん。前にも言ったとおり、私は居なくなったりしませんから」


 仕方がないとはいえ僕はまた嘘を重ねてしまった。そして、段々とそれに慣れてきてしまっている自分がいて少し怖くなった。

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僕の初恋には期限がある。 ひなみ @hinami_yut

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