七月六日 君のために③

 待っている。

 あのドアが不意に開いて、駆け寄る足音を。

 時折不安に押しつぶされそうになるけれど、待っている。

 カチカチカチと、部屋の時計が心臓の音よりもおおげさに響いて鳴り止んでくれない。


 あれからどのくらい経ったのかわからない。

 おそらく僕は、主観が入りすぎていて余計なことをしている。それはわかっている、けれど。


 陸上競技のスタートのように、この静かな空間に待ち望んでいたインターホンが鋭く鳴る。悩み沈んでいたはずの心は、考えるよりも先に駆けていくとドアを開けていた。

 ざあざあと降りしきる雨音が大きくなる。

 濡れたままの髪と息を切らせた目の前の姿に、たった一言の「おかえり」は震えて、真っ赤な目をした彼女は小さく「ただいま」と呟いた。


 ソファに隣り合う。ふうふうとゆっくりとしているけれど、彼女から重い呼吸の音が聞こえる。視線が合うはずはない。

 余計なことをしている。それはわかっている、けれど。

 それでも、心に傷を負わせてしまった僕は彼女を必ず笑わせると決めたから。


「私のせいで春日君がいなくなっちゃったんだって、ずっと夢に出てくるんだ。でも周りの人には迷惑を掛けられないから、学校だけじゃなくて家族にも元気な振りだけをしてる。そんな自分がただただ空しい存在に思えて仕方がないの」


「私さえいなければ。彼を失うことも、お姉さんを一人にしてしまうこともなかった。どこで間違ったの? どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」


 寄り添うように、手を握ったまま相槌だけを打って言葉を促すと、彼女の心がせきを切って次々と溢れ出てくる。


「あの時、私が死んでいればよかったのに!」

 その言葉に最期の瞬間が鮮明にフラッシュバックをして、胸がぎゅっと締めつけられる。


「それは違うっ!」

 彼女と向かい合うようにしてその両肩を強く抱いた。ただ見つめ合ったまま、僕は首を横に振って「そんなことないんだよ」と繰り返した。


「それでもね、泣いてるところは見たくないんじゃないかなって思うよ。アズちゃんには元気で笑っていて欲しいって、彼だってきっとそう思ってる……」

「あの人のことを忘れてそんなこと、できるわけないよ」

 彼女は大きくかぶりを振る。


「違うよ、忘れないように笑うの。悲しんでばかりじゃ前になんて進めない。でもね、もし泣きたくなったら言ってよ。私がいる。香椎かしいさんだって話を聞いてくれる。だから安心して。大丈夫、大丈夫だからね……」


 背中を優しくさすって言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 ひとしきり叫ぶように泣きはらして、雨音が小さくなりかけた頃、ようやく落ち着いてきたのか高村たかむらさんはこちらに体を預けて涙を拭った。


「あのね。でも、アヤカとはあんまりそういう……」

 いつものようにとはいかないけれど、顔を上げた彼女は少し困ったようにそれを口にする。


「ストップストップ。今日はもう一人、特別なお客さんが来ています」

「……え? 誰だろう。私の知ってる人?」

「さて、どうでしょう。それではどうぞ」

 僕はキッチンの方向へ声をかけた。


「……よう」

 言って直後現れた人影に、

「な……なんだアヤカか。うーん、どのあたりが特別なんだろう?」

 一瞬動揺した様子を見せながらも、高村さんは普段の調子で疑問を口にする。


「だよな」

「え、あれ……。ちょっと、何か変なものでも食べた?」

「昨日から何も食べてないよ」

「え、嘘でしょ! もしかして調子でも悪いんじゃない? 病院行くなら付き添うよ……?」

 高村さんは立ち上がると香椎かしいさんの側に寄って、心配そうな顔をした。


「そんなんじゃないよ」

 と一言だけ返した彼女に続けて僕は、

「あのね、アズちゃん。実は……」

「冬月さん」

 香椎さんはすぐに僕の言葉をさえぎった。


「あとは私の言葉で伝える。だから」

 彼女の力強い眼差しがじっと僕を捉えて離さない。


「あー、そうだ。アイスでも買ってこようかな! 今日は特に暑いし、そうしよう!」

 僕はおおげさに声量を上げて言った。


「じゃあ私も行こうか? アヤカはそこで横になっててよ。ついでに何か食べるものでも」

 と高村さんが言い出したので僕は慌てて、


「あ、ううん。大丈夫! 二人はお客様なんだからくつろいでてよ。アイス、何がいいかな!?」

「うん、そう……? じゃあ、チョコミントがいいな。もしなかったらまひろちゃんが選んだものでいいよ」

「私も同じものでいい」


 高村さんと香椎さんをひとまずテーブルにつかせて、午前中と同じ林檎のシナモンティーを二人に差し出した。


「じゃあ行ってくるね。すぐ戻ってくるからテレビでも見ててー」


 小雨の中、マンションを出ると近くのコンビニへ向かう。

 あえて時間を稼がないといけないと考えながら、差した傘をくるくると回して歩く。

 入店するとしばらく立ち読みでもしていようと書籍コーナーへと足を運び、パラパラとさして興味もない雑誌を一冊、二冊と読み飛ばしていた。


「あれ、冬月さんじゃない?」

 軽快な店のメロディーの後、入り口側から男の子の声がした。

「あ、和輝かずき君だー。こんにちは!」

「こんなところで会うなんて奇遇だね。何かしてたの?」

「あ、うーん。まあ……ちょっとした、そんなとこ! そっちは?」

 三冊目を半ばにして棚に戻すと聞き返す。


「え、ああ。おれもそう、そんな感じかな。――あーあ、それにしても、早く梅雨明けて欲しいよね」


 目がわかりやすく泳いでいる。それは彼にしては不自然な対応のように思えた。


「そうだねー。ほんっとじめじめして嫌になっちゃうよね」

「夏休みになったらなったで、今度は暑いって愚痴ってそうだけど。今よりはマシだよね」

「そうそう。この間も言ったけど、暇してたらまた遊びに行こうよ! それこそ休み中がよさそうだと思うんだけど」

「冬月さんがよければ。……って、これも前に言った気がする?」


 話し始めて十五分くらいが過ぎた頃、「またね」。店を出た僕達は互いに手を振り別れた。


***


「あれ? 香椎さんは?」

 帰宅すると高村さんはソファでじっと窓の外を見ていた。


「お腹が空きすぎたから、ましましのラーメン? 食べてくるって飛び出していっちゃったよ。そのまま家に帰るから、アイスは二人でわけてくれって」

「そうなんだ。色々話せたみたい?」

「うん。これからはもっと……二人を頼れるようになりたいな。でね。それなんだけど、もしかして……そのつもりで今日は呼んだの?」

 高村さんは不思議そうな様子で尋ねてきた。


「そういうことになるかな。ごめんね……余計なお節介なのはわかってるんだけど、それでも何かしてあげられないかなって」

「うん……」

「それにね。私達は友達なんだから……。ただ見ているだけなんてことはできないよ」


 高村さんがぎゅっと両手を包むように握ってくる。


「うん、そうだよね。私だって、まひろちゃんやアヤカが困ってたら助けてあげたいって思うもの!」

 そう言って高村さんはにこっと笑う。それにつられて僕も笑顔になった。


「あ、でも。一つ訂正して貰わないといけないところがあるかな」

 彼女の予想外の言葉に大きく目を広げる。


「私達は友達なんかじゃないよ?」

「…………え、え?」

 その言葉にさあっと血の気が引いていく。


「――私達は親友。でしょ、まひろちゃん!」


 キラキラと潤んだ瞳で笑う彼女から目が離せない。

 高鳴った心臓にこの気持ちがしばらく消えてしまうことはなさそうだ。

 降っていた雨はいつのまにか止んで、窓からは夕日が差し込んでいた。

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