七月六日 君のために②

「ねえまひろ~。この間のやつさー。あれ、なんていうんだっけ?」


 掃除機をかけていると背後からルナの声が聞こえる。

 スイッチをオフにして彼女に体を向け考えてみる。けれど要領を得なかった僕は小首を傾げるしかなかった。

 すると彼女は両手で何かを持って、もぐもぐとかぶりつくようなジェスチャーをする。


「わかった。スイカ?」

「もー、ぜんっぜん違うよ~! ほら、まひろが持って帰ってきたやつだってー!」

「あ。ああ、あれね。確かに、また食べたくなるくらい美味しかったよね」


 どうやら先日、楼蘭亭ろうらんていで店主から手渡され持ち帰った包みの話のようだった。


 硬めに焼かれたパンに挟まれた肉厚のパティ。その隙間にはシャキシャキのレタスとフレッシュなトマト。立ち昇る得も言われぬ匂いに思わず頬張ると、じゅわっと肉汁が溢れ出し味覚を強烈に刺激する。塩コショウ以外の余計な味付けは一切しない豪快なスタイルのハンバーグサンドに、僕らは魅了をされたのだ。


「だよねだよね~」

「また立ち寄った時にお願いしてみるよ。ところでさ……」

 部屋の片付けを粗方済ませ、一息ついた僕はソファーに軽く腰掛ける。

 ルナはいつものように僕の膝の上に乗っかってきて「なになに?」、こちらに振り向く。


「今更なんだけどルナってご飯とか食べれるんだね、普通に」

「うん! まあなくてもぜんぜん問題はないんだけど~」

「……けど?」

「食べてる時にまひろとお話できるのが、だいっ好きなんだよね~。あ、でも別に食べなくても平気だからさ、変に気を使わなくてもいいんだよー?」

 彼女はえへへと満面の笑みを浮かべる。


「そっちこそ。じゃあ、これからも一緒に美味しいもの食べよ!」


***


 たった今、午前十時を回ったところ。

 ルナが眠りに入ったのを見届けると、僕は家の最終チェックをしようと立ち上がる。

 別段この家に変なものはないのだけれど、やっぱり落ち着かないのだ。それはきっと僕の中に残っている、もやもやとした高村たかむらさんへの好意のせいだろう。

 例えそれを告げられたのだとしてもその先は知れている。だからといって彼女に対して不誠実なことをするつもりはない。

 いつか消えてしまうその日まで、宙ぶらりんなこの気持ちは心に留めておくつもりだ。


「んー、今日も雨かぁ」


 薄い青色の傘を静かに広げて、僕は溜息とともにエントランスを出た。

 じめじめと湿度の高さを感じる、生ぬるい空気にもすっかり慣れつつある。それでも不快なものは不快だ。

 梅雨明けにはもう少し掛かりそうだとテレビが言っていたのを思い出す。けれどその頃には、夏休みがこの湿気を吹き飛ばしているだろうからそれまでの辛抱だ。


 などと考えながら歩いていると赤い屋根の家に到着する。インターホンを一度鳴らして深呼吸。咳払いを何度かして、


「あの、冬月と言います。梓さんはいらっしゃいますか?」

「冬月さん……。あら、あらあら、あなたがお友達の子ね? すぐに呼ぶからちょっと待っててねぇ!」

 と、母親と思われる感情豊かな明るい声が出迎えた。


「まひろちゃん。ごめんね、待たせたよね?」

「ううん全然。じゃあ行こっか」


 小雨の中を並んで歩く。

 道路側に立ち隣に視線を送ると、ふんふんと鼻歌が彼女の赤い傘から聞こえる。


「うん? どうしたの?」

 不意に目がばっちり合った。

「あ! えっと、今日の服可愛いなって思って!」

「ありがとー。でもまひろちゃんもなんだか、いつもより気合いが入ってて好きだなあ」

「そ、そうかな~……?」


 歩いて十分もしないうちに、白い外壁の建物へたどり着き彼女を案内する。

 築年数がそれなりなのでオートロックなどの設備はない。けれどそこは大して問題ではないと思っている。

 このマンションの二階の二号室が僕の部屋だ。ここに住むことになってからもう三ヶ月になる。そう思い返していると、


「まひろちゃん、何か考えごと?」

 気付くと家のドア前。高村さんが不思議そうに顔を覗き込んでいた。

「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。今開けるね」

「わぁ、楽しみだなー!」


 テンション高めなその声を背に受けながらドアノブを引く。


「あんまり広くないけど……入って入って」

「はい、お邪魔しまーす」


 玄関から進んだ左手にはちょっとしたキッチンスペースがあり、その反対側にはユニットバス。普段ならベランダから陽の光が差し込むはずの奥の部屋は、フローリング張りの洋室になっていて、クローゼットもそこに備えつけられている。いわゆる1Kワンケーの部屋というやつだ。


 ちなみにルナにはクローゼットの上の段に退避して貰っている。とは言え、他の人からは見えないし触れられないのでそこは大丈夫そうではあるけれど。


「へえー。なるほどなるほど……」

 高村さんは後ろ手を組みながら、あらゆる場所を見て頷いたりしている。

「何かおかしいとこ、あるかな?」

「あ、違うの。どこも綺麗にしてるんだなって思って!」

「そんなことないよ。じゃあ、好きなとこに座ってて。何か飲み物持ってくるから」


 この日のために用意した、ちょっと背伸びして買ったアップルシナモンのティーバッグを熱湯に浸すこと数分。カップをそれぞれの正面におくと、テーブルを挟んだ彼女の向かいに座った。


「とりあえず、テストお疲れ様ということで!」


 彼女が持ってきてくれたクッキーをかじりながら、会話は文字通り弾んだ。学校での近況から始まってお気に入りの音楽や本、ファッション、他人の恋の行方だったりとその内容は多岐に渡る。

 本題に入るには早いような気がして。いや、この時間が楽しくて今はまだこうしていたいのだ。


「ねえ、こういうのって見たりする?」

 とある女性向け恋愛ものアニメの、ブルーレイディスクを見せながら僕は尋ねた。とにかく面白くて泣けるからお勧めだと、石動いするぎさんから手渡されていたのだ。


「あ、何かそれ知ってるかも。確かマンガとかで読んだような……?」

「おー、そうなんだ。じゃあ見てみよっか?」


 この体の影響なのかはわからないけれど、趣味や嗜好が変化しつつあると自分でも感じる時が増えている。事実、部屋の本棚にはこれまで触れる気もしなかった少女漫画やレディースコミックなどが数多く並んでいる。


 ソファに並んで座って視聴を開始、それを見終わる頃には十二時をとっくに過ぎていた。

 昼食代わりの食事にはパスタを一緒に作って食べ、分担して洗いものを済ませる。


「たまにはこういうのも新鮮でいいなあ」

「あのねアズちゃん。ちょっと真剣に聞いてみたいことがあるんだけど……いい?」

「う、うん? なにかな?」


 午後二時近く、再び高村さんと向かい合って交わすテーブル越しの視線。

 僕の気迫が伝わってしまったのか。彼女は座りなおし背筋をピンと張り、神妙な面持ちで「どうぞ」と次の言葉を待つ。


「前に、五月に話してくれたよね。春日かすが君のこと」

「……」

 彼女の眉毛がピクっと一瞬反応をしたのを見逃さなかった。けれど言葉などを発することはなかった。


「私はアズちゃんが今、悩んでいることを知りたい。聞かせて欲しいんだ」


 押し黙り続ける彼女は俯いてしまい、こちらと一切目が合わない。

 時間にして数分のことだったと思う。けれど僕にとっては何十分にも感じられた。


「ごめんね、ちょっと一人になりたい」

 突然彼女は立ち上がり、ショルダーバッグのストラップを掴んで引き寄せた。


「あの、もう帰っちゃう……?」

「ううん。必ず戻ってくるから、だから今は……ねえ、ダメかな?」

 振り向きざまの彼女とようやく目が合う。その表情はこれまでに見たことがないものに思えて、複雑な感情が絡み合っているようだった。


「わかった。今日じゃなくても、いつでもいいから。私はずっとここにいるよ」

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