六月二十七日 楼蘭亭へようこそ①

「つまりさ、この式を応用すればいいわけなんだよ。一回それを踏まえてやってみ?」


 七月初めの期末考査まであとわずか。しばらくは部活も休み。いつもなら野球部やサッカー部などの運動部がグラウンドを賑わせるのだけれど、ここのところは平穏が保たれていて図書館いらず。集中するには打ってつけだ。

 今、僕と高村たかむらさんは放課後の教室で数学を教わっている。


「あ、本当だ。できた」

 高村さんはスラスラとシャーペンシルを走らせると、僕に微笑みかける。

「わ、本当だ。やっぱりすごいね」

 ペンをくるくると微笑み返す。

「そうだろうそうだろう!」

 机を挟んだ正面でふふんと鼻を鳴らした人物が、したり顔で椅子に腰掛けている。


「本当数学だけはできるよね。他は赤点ギリギリなのに」

「それを言うなっ! ていうかしばらく調子に乗らせておくれよ……めったにないことなんだからよぉ!」

 香椎かしいさんが机をバンと叩いて立ち上がると、椅子は一瞬後ろに倒れそうになったものの元に戻る。すると彼女は高村さんに猛抗議をするかのようにまくし立てた。


「はいはい、すごいねアヤカは。じゃあ次のも教えて欲しいな?」

「先生、お願いします。もう私達には先生しかいないんです!」

 僕もそれに乗っておくことにしよう。


「ふっ、先生と来たか……いいだろう! だがここからはハードモードだ。果たして君らはついて来れるかな!?」

「hard modeね」

「うぉい! 今そこはいいんだよっ!」


 二人のいつものやり取りに笑いつつ

 こうして小一時間ほど特別講師に教わるのだった。


***


「テスト明けが楽しみだなー。まひろちゃん、またね」

「うん、一緒に頑張ろうね」

 高村さんを家に招くのはそういうことになった。意見を交わした結果、さすがに期間中に遊ぶというのは問題があるだろうという結論に行き着いたのだ。


 いつもの帰り道。

 セミの声を聞きながら、薄手のハンドタオルで顔を扇いで息を吐く。もうすぐ七月。夏はいよいよそこまでやってきている。


 普段よりはゆっくりと時間を掛けて歩く。

 すると電気店や雑貨屋などに紛れるように、ある古びたお店が目に入った。一見喫茶店のような外観なのだけれど、店内側のカーテンがさえぎっていて、窓から中の様子をうかがうことはできない。


 もしかすると今は営業していないのかもしれないが、まだだ。諦めるにはまだ早い。小説で見た探偵の真似事をして正面の入り口に回ってみると、小さな立て看板には『楼蘭亭ろうらんてい』とあり、扉には『OPEN』と書かれた札が掛かっていた。

 いよいよ謎なお店だなと思うのと同時に、すごく興味を惹かれたのも事実だ。


 ガチャリとドアノブを回し引くと、重たそうな扉は想像していたよりもすんなりと開いた。

 テスト勉強を頭の片隅に置き去りにしてしまう罪悪感よりも、とにかく今は中を見てみたいという衝動のほうが勝ってしまっていた。


「お邪魔しまー……ひゃう!?」


 カランカランと何かの音が鳴ると、体は大きくびくりと反応してしまう。

 おそらく客の入店を知らせる何かなのだろう。

 セーフだ。今は一人だし、誰にも聞かれてはいない。


 そう胸をなで下ろしているとすぐに、外界がいかいとは何もかもが違うような、そんな気がした。まるでアンティークショップのようなではあるけれど、それでいて古本屋や図書館に来た時のような、甘いバニラの匂いが立ち込めている。


「誰かいますか?」


 歩を進めると、西洋などでよくある甲冑かっちゅうのようなものやシャンデリア、ランプなどが、ショーケースの中に収められ立ち並んでいる。どうやらここは喫茶店ではないのかもしれない。


「あのー……」


 今度は一帯の匂いの元と思われる古びた本が、背の高い本棚に作者順に並べられている。ここの店主は几帳面な性格なのだろうか。


 さらに進んでみると、唐突にコーヒーのような香ばしさが鼻腔をくすぐった。それと同時に視界に入ってきたのは喫茶店などに見られるカウンター。

 謎が謎を呼ぶ展開に、まるで異世界に来てしまったような不思議さがここにはあるようだった。


「おや、珍しいお客さんだね」

 と確かに声が聞こえた。

 振り返ると丸い眼鏡と白髪が印象的な、創作もので見かける執事のような格好の長身の老紳士が立っている。


「あ……」

「ああ。驚かせるつもりはなかったのだけどね、失敬」

「あ、えっと! ここは一体何の……お店なんですか?」

「まあまあ、お嬢さん。何も私は君を取って食おうという訳ではない。一先ずそちらに掛けてみては如何いかが?」

 店主と思われる彼は、エスコートをするようにカウンターの方へと促した。


「コーヒーは飲むほうかな?」

 言うと彼はカウンター越しから、ソーサーに乗せた香り立つカップを目の前に置いた。


「多分、大丈夫だと思います。って……にがっ」

 予想以上の舌への刺激に思わず本音が出てしまうけれど、

「正直なのはいい事だ。とは言え、うちのは大分苦味が強いからね。良ければこれを」

 彼は全く意に介さない様子でにはおよそ似つかわしくない、雪だるまのシュガーポットを差し出した。


「――聞こえてるかな? この店は何なのかという質問だったね」


 いつの間にか僕はそれに夢中になっていた。心の中で彼に申し訳ないと思いながら、


「え? あ、ええっと、最初は喫茶店かと思ってたんです。だけど中の様子はアンティークショップだったので、そうじゃなかったんだと思ったらコーヒーが出てきて……?」

「うんうん、最初は皆そう言うよ。では正解は如何いかに――」


 彼が言うには、開店当初は純粋な喫茶店だったのだそうだ。趣味のアンティーク集めが高じて店内を占拠しだした結果、カウンター周りだけが唯一の喫茶店要素となっていった。

 要するに、楼蘭亭はアンティークショップ兼喫茶店なのだという。


「そうだったんですね。このお店はいつ頃から?」

「もう……かれこれ二、三十年にはなるかな」

「わあ、長いんですね。あの、今更ですけどあなたのお名前は何と……?」

「我輩は店主。名前はまだない」

 眼鏡を布で拭っていた彼はそう答えると、再びそれを掛けなおした。


 突然のことに僕がしていると、彼は「もちろん冗談だよ」といくらか茶目っ気を含めて言う。


「名前というものは誰にでもあるものだけれど、ここでは名乗ってはいけないというルールがあるんだ」

「ルール……とは?」

「私が作った、ここだけの決まり事なんだよ。何も名前だけの話ではなくてね、例え外でどれほどの立場であっても、そうでなくてもそれは関係がない。ここでは誰もが対等な一人の客であり、私はただの店主。そうありたいんだよ」

「もしも、それが守られない場合はどうなるんでしょう?」

 すっかり甘くなったコーヒーをすすりながら尋ねる。


「残念ではあるけれど……縁がなかったということになる。まあ、こればかりは仕方がないことではあるけれどね」

 彼は語気を弱めたように思えた。


 それを聞いて何者でもないわたしは、確かに心を打たれた気がした。

 何かを聞いて欲しい、相談したい、そういうことではなくて。ただただ、素性の知れない人と静かに過ごす場所を欲していたのかもしれない。


「日常とかけ離れた空間のあり方が、とても素敵だと思いました」

「おや……君のような若い人にそう言ってもらえると嬉しいね。そうだな――少し待っていてくれるかな?」


 今まで気付かなかったけれど、ここにはジャズのような曲が静かに流れていたのだ。

 待っていると何かいい匂いがこちらに流れてくる。奥にあるのだと思われる調理場で何かを作っているのだろうか。


「ええっと……これは?」

「今日の出会いを祝して。持ち帰って一人でもよし、誰かと分け合うもよし。すべては君の思うままに」

 言いながら、彼から暖かさを感じる包みを手渡される。


(まひろー。今日は遅いの? 心配だよ~)

 直後ルナからのメッセージを受け取る。

 思っていたより長居していたかも。


「あ……そろそろ帰らないと。おいくらですか?」

 立ち上がってカバンから財布を取り出す。

「私が勝手にした事だから、御代は結構だよ」

「それでは私の気が済みません」

 見つめあい譲らない意志を見せる。


 すると店主はふぅむとしばらく思案を巡らせて、

「ではこうしよう。また来てくれたらその時にまとめて頂くよ」

 空のカップを片付けながら茶目っ気たっぷりにウィンクをした。


「あの、今度は友達も連れてきます。必ず来ますから!」

「ああ、君ならばいつでも歓迎するよ」


 バニラの匂いを抜けてカランカランと店を出る。


 喧騒渦巻くこの世界はやはり暑かった。短時間でもあったに関わらず、それでも懐かしさを覚えるようだ。

 相変わらずのセミの声を聞きながら、確かな重さを携えた紙袋を片手に僕は帰路に着いた。

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