七月十日 親愛なるあなたへ①
「へー、ここが例の店か! なんかさ……こう、えー、んー現実? 離れした感じがするような。
「
彼女がこちらを見て笑う。
「偶然入ってみたらね、ちょっと雰囲気がよさそうだと思ったんだ。だから一緒にどうかなって」
ちなみに今呼び合っているのはコードネームのように、示し合わせて決めたものだ。僕のこの場での呼び名はネモフィラ。それは姉さんの好きな花の名前。
「マスター、こんにちは。約束どおりまた来ました」
先陣を切って僕は挨拶をする。
「うん、ありがとう。それにしても素敵なお嬢さん方が、このような寂れた店に来てくれるなんて。私はまさか夢でも見ているのかな?」
それを聞いてすぐに「ステキなのは私以外だな!」と香椎さんが豪快に言い放つと、「自分の魅力に気付いてない人が一人いるよね」。高村さんがくすくすと笑った。
「マスター、コーヒーとこの間のあれを三人分お願いします」
「おや……気に入って貰えたみたいだね。すぐに用意するから待っていてくれるかな?」
あのハンバーグサンドを二人に振舞うと、ハンバーガー好きな香椎さんは言うまでもなくあっと言う間に平らげた。
「家にも持って帰りたいな」
普段そういうものをあまり食べないと言っていた高村さんも気に入ったみたいだった。
「それは嬉しいね。ただ出来上がりまで少々時間が掛かるよ。そうだ、店内を見て回ってはいかがかな?」
思わぬ追加注文に、マスターはコーヒーカップを下げながら時間つぶしがてらの提案をした。
「そうしてみますね。ここに来てからずっと、シャンデリアが気になってたんです」
「明らかに高そうなのばっかだったし、気になるのもわかるな」
「そういう意味じゃないんだけど……。ま、行こっか」
二人を見送って僕はカウンターに残った。
「おやおや……。君は一緒に行かなかったのかい?」
調理場に姿を消していた店主は、ようやく手が空いたらしくこちらに声を掛けた。
「ちょっと聞いてみたいことがあって。今って大丈夫ですか?」
「二人にはあまり聞かれたくないこと、なのかな」
おいそれとできない話なのは確かだ。これに関しては考えるまでもない。
「そうなってしまうのかもしれません」
「了解したよ。ではここから先は私達だけの秘密としようか」
マスターは声のトーンをかなり落として言った。
「ありがとうございます」
姉さんと今の自分の関係をオブラート以上に包み隠した上で。
心配していることを正直に伝えたい。けれど今の関係が壊れてしまうのを恐れていること、それでも元気でいて欲しいから、いつまでもこのままではいけないと思っていることを伝えた。
さすがに重すぎたのかもしれない。
間はしばらくどころではなく開いて、ようやく「よく話してくれたね」と彼は大きく頷いた。
「君にできるのはたった一つしかない。真っ直ぐな気持ちを相手に伝えること。そこに遠慮も
「もし、失敗してしまったら?」
「今から考えるべきではないね」と、彼は首を横に振ると言葉を続けた。
「ただ、大事な人を思うのならば決して恐れてはならない。辛い選択になるかもしれないけれども、それを乗り越えて一歩だけでも踏み込むことができたのなら、何かが変わるのではないかな――」
***
「こんにちは」
「いらっしゃい、入って」
また
自分の遺影の前に座ると手を合わせ、一礼をする。
未だにこの違和感に慣れることが出来ない。
「お姉さん、一人で大変なのではないですか? それから、少し痩せたような気もします……きちんと食べていますか」
「今日も心配してくれるのね。冬月さんは本当に優しいね」
姉さんはやや力なく笑って答えた。
以前よりも明らかにほっそりとした体と表情、目の下に浮いたクマは半端なメイクでは誤魔化しきれていない。
このまま病気になってしまったり、倒れてしまってはいけない。どうにかして元気を出してもらわないと。
「でも、大丈夫よ。お仕事はまだできる状態ではないけど、しばらくすればまた」
そのしばらくはいつになる。
一ヵ月? 三ヶ月? 半年?
一年後?
その先の世界には僕はもういない。この人はずっと続いていく人生を、たった一人で歩んでいくことになる。
「いえ、だから……そう見えないから言ってるんです」
「冬月さん、どうしたの? もしかして怒ってる? ……顔がちょっとだけ怖いわ」
彼女は少しだけ怯えたような表情になる。
「ごめんなさい。でも、このままじゃ倒れてしまいますよ。辛いのはわかりますけど、まずはお姉さんには元気になってもらって――」
感情を抑えるように身振り手振りを交えて話す。
「もうね、このまま消えてしまいたいの。だってそうでしょう? わたし、一人になっちゃった。あの子も、悲しむ人もいない。だからこれで終わってもきっと、皆笑って許してくれるはずなの」
不意に頭を強く殴られたような衝撃を覚えると、私は僕であることを忘れていたのだろう。
「そんな勝手なこと……言わないでよ! どうしてわかってくれないの!」
はっとして両手で口を抑えても、もう手遅れだった。
気付いた時には思わず声を荒げ、叫んでしまっていたのだ。
姉さんは相当驚いたようで言葉を発することもなく、びくっと体で反応を示している。
流れる沈黙がただ痛くてどうしようもなく苦しい。
「ごめんなさい。違う、違うんです。そんなつもりじゃ……!」
「…………」
姉さんは依然として俯いて押し黙っている。
「あ、あの……」
「出て行ってよ。赤の他人のあなたに、どうしてそこまで言われなくちゃいけないの? わたしの気持ちなんてわからないくせに! もういいから帰ってちょうだい!」
力を振り絞るようにふらふらと風呂場に消えていく姉さんは、内側からドアをゆっくりと閉めた。擦りガラス越しにガタガタと体を震わせているのがわかった。
一番わかっている。
鼻の奥のツンと痛みが、じわじわと顔じゅうに広がっていく。
『赤の他人』という言葉が頭をもたげ、体に重くのしかかると、唯一の肉親という思いは消えてしまいそうになる。
思いはそう簡単には伝わらない。それはわかっていたはずなのに。
けれど高村さんのこともあって、僕は何とかなると勝手に思い込んでいた。
ふと視界に入った、居間に置かれた写真。
――どうして、一筋の可能性に
甘ったれた優しい幻想に背を向ける。
二度とこの家に来ることも、あの人に会うこともない。
私は笑っているのか泣いているのか。
自分にもわからないくらいに、ぐちゃぐちゃに感情が入り乱れていた。
俯くと涙は落ちてこの部屋の畳を濡らしている。
ここでいつも同じ時を過ごしてきたんだ。
額縁の中の、家族四人で取った唯一の写真をもう一度見て、
『そうだ、帰ってきたら一緒に食べようよ』
あの日最期に掛けた言葉をふと、思い返していた。
それでも、まだ終わることはできない。
――――私は他人なんかじゃないんだから、当たり前だ。
心を奮い立たせ
鼓動は速く、呼吸も上手くできていない。
構わず震えたまま「そのままで聞いてください」と、ガラス越しの姿に声を掛けた。
「私も、ひとりぼっちなんです。……と言っても両親は健在なので、そちらとは大分事情は違いますが……。今は二人とも海外にいてしばらく戻れなくて……」
「私は一人っ子だったので、両親が引越していった中学生の頃から孤独でした。起きても、帰ってきても、寝る時も誰一人いない。なのであなたに近い気持ちを持っていたのかもしれません」
「だからこそ、そんなあなたには少しでも元気でいて欲しかった。あなたはさっき、悲しむ人がいないと言いました。だけど、少なくとも私だけは悲しみます。きっと一日中泣いてしまうと思います。それだけは知っていて欲しいんです」
再びの長い沈黙。
この静けさに段々と慣れてきているのは切ないけれど、僕は少しだけ
伝えることは伝えきったから。
「今日はこれで帰ります」
後ろ髪を引かれるように家を出て行くと、音を立てないようにドアを閉めた。
***
深夜。
何度も同じ場面を、鮮やかに繰り返しているうちに目は冴えてしまった。
コップに水を汲んで飲み干すと大きく溜息をついた。
「まひろ、もしかして眠れないの?」
ルナの声が後ろから聞こえる。
「ごめんね。私が眠らないとルナだって、動きようがないもんね」
「こういう時くらいさ、人に気を使うのやめなよ。あ、でもルナは人じゃないか~」
てへへと笑ってくれる存在が近くにいるのが、こんなにもありがたいなんて。
「でもね、もう少ししたら眠れると思う……多分」
「あやしいな~。そうだ! すこしさ、外に出て気晴らしでもしない?」
ルナからのその言葉は完全に予想外のものだった。
「ねえ、どこに行くの?」
(さすがにこっちで話そうね~。まひろが不審者になっちゃうから)
(了解)
雲に覆われて月のない夜だ。
公園へと向かう途中、僕もルナも黙ったままだった。ある程度気持ちの整理をつけておかないといけない。それを考えると掛ける言葉が何も出てこなかった。
あのベンチに――
何を言うべきだろう。
『上手くいかなかったけどスッキリした』?
本当はしてなんかいない。
『これからどうしたらいい』?
自分で決めることだ。
『もう諦めたい』?
それだけは嫌だ。
(まひろ。今日何があったのか全部話してみて)
その言葉を僕は待っていたのだろう。
包み隠さずありのままを彼女に伝える。途中で思い出して泣いてしまうけれど、ルナは「大丈夫だよ」と言って最後まで聞いてくれた。
(まひろはさ、いつも真剣に相手のことを考えてる。あの彼女の時だってそうだったでしょ。そういう気持ちってさ……自分が思ってる以上に伝わってるものだよ。だから、ダメだったって判断するのにはまだ早いんじゃない?)
(え、あれ聞こえてたの?)
(そりゃー、まひろの好きな人のことなんだから気になって気になって~!)
そのいつもの調子が聞こえると、何故だか安心してしまうような気持ちになった。
「私、最後まで姉さんと向き合うよ」
思わず声に出てしまっていたけれど、これはきっと僕の決意表明だ。
ルナは満面の笑みで優しくそれに頷いた。
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