七月十四日 親愛なるあなたへ②
あんな別れ方をしてしまった僕に残されたのは、姉さんへの気まずさと申し訳なさ。そして、それでもなりふり構わないという気持ち。一つの悔いも残らないように、どんなことになろうともこれだけは変わらない。
ダメだったらダメで消えたくなってしまうけれど、そうならないようにこの世界へと繋ぎとめてくれる大きな存在がいる。
一日目。春日家を訪ねインターホンを押すも、ドアを叩くも反応はない。
二日目はドア越しに声を掛けてみた。無反応に最悪の展開が頭をよぎり始めると、声をあげてドアを叩いていた。けれど状況は変わらなかった。
あの雨の日、少しだけ前向きになり始めた高村さんの笑顔を思い出す。願わくば姉さんにもそうなって欲しい。それ以上の高望みをするつもりはない。
不安や恐れを振り払うように高揚感へと変えて、重い足取りを軽やかに。迎えた三日目、再び春日家に足を運ぼうとしていた。
家の前には誰かがいるようだ。それに気付いた僕は咄嗟に身を隠し様子を伺うことにした。
座っていた髪の長い女性はゆっくりと立ち上がると、きょろきょろと周りを見回して何かを探しているように見える。
よく見てみるとあれは姉さんに間違いなかった。一体何をしているのだろう?
その姿を見られて安心した次の瞬間、彼女は何かに足を取られたように体のバランスを失うとふらつき始めた。このまま転びでもしたら大変なことになる。
息を呑んでいた僕はそのまま彼女の元へと駆け出した。
「お姉さん、大丈夫ですか?」
目の前まで来て声を掛ける。少し間が空いて、彼女は僕の方を見つめると悲しそうな顔をして抱きついてきた。ぐいぐいと服の袖を引っ張ろうとするその力は本当に弱々しい。元気な以前の姿を知っている身としてはただただ、申し訳ない気持ちで一杯になった。
声にならないような声で、姉さんは僕の首元でかすかに囁いている。それでも唯一聞き取れたのは「ごめんね」という言葉だけだった。少なくとも彼女から敵意のようなものは感じられない。
「一度、落ち着いて話しませんか」
とだけ言うと肩を組ませるようにして、家の中へと一緒に入っていった。
出っぱなしの台所の水道。引き裂かれたカーテンに、中の綿が出てきてしまったクッション。床にはガラス片があちこちに散らばっている。部屋の中は数日前と比べるとあからさまに荒れているように思えた。
姉さんの方はというと、幸いなことにケガなどはしていないようだ。大事に至っていなくて本当によかった。
ひとまずは玄関近くにあった椅子に腰掛けてもらう。
「ちょっとこれは危ないですね……。私がすぐ片付けますから、お姉さんはここで座っててくださいね」
安心させるように笑ってみせると、興奮気味の彼女は未だに声が出る様子はないけれども小さく頷いた。
大きな破片を粗方片付けて、あとは細かなガラス片が残らないように入念に掃除機をかけた。カーテンとクッションはこのままでも今のところは問題ないだろう。
姉さんのところにまで戻ると「もう大丈夫ですよ。入って来てくださいね」と声を掛けた。ゆっくりとやってきた彼女に向き合うと床に座る。
「ごめんなさい、違うの……。あなたは何も悪くないのに。ただ心配してくれてただけなのにわたしは酷いことを言っちゃった。本当にごめんなさい」
手渡したコップの水を飲み干すと、彼女は僕から一切目を逸らすことなく話し始めた。
「全然、気にしてなんかないです。私の方こそ……感情的になってしまってすみませんでした。それに余計なお節介をしてしまったと思っているんです」
「ううん、違うの。わたし嬉しかった。もう一人ぼっちなんだと思ってたら、そうじゃないんだって冬月さんが教えてくれて……それでね、わたし、えっと」
焦るように視線を壁や床に向けては戻して、合間に僕を見ている。口はぱくぱくと動いてはいるけれど何も聞こえてこない。
きっと頭の中では言いたいことが浮かんでいるのだろう。ただそれが言葉になっていない様子だった。
いつも落ち着いていたはずの彼女のこんな姿は、ただの一度も見たことがなかった。
「大丈夫、ゆっくりでいいんです。明日から元気になるまで毎日来ますから。それに私はいなくなったりしませんよ」
「本当に本当……?」
彼女は両手をぎゅっと握ってきた。
「思ってたことや抱え込んでたことは、私が聞きます。いえ、これから時間が掛かってもいいので全部聞かせて欲しいんです」
***
「あのね、冬月さん」
帰り際に玄関先で呼び止められる。
「はい、どうかしましたか?」
「わたしがこんなじゃあの子もきっと……安心できないよね」
「まだまだこれからですよ。その為にはまず食べることから!」
「でも、冬月さんって本当不思議な子ね。こうやって側に寄り添ってくれていると……なんだか祐を思い出しちゃって。もういないはずなのに変よね」
彼女ははあっと大きく溜息をついた。これまでと違うものがあるとすれば、それは表情が明るくなったことかもしれない。
その上そんなふうに言われたら期待をしてしまう。
「お姉さん……。あの、私も変なこと言ってしまってもいいですか」
「ここまできたらもう、遠慮なんてしないで」
「お姉ちゃんって、呼んでもいいですか? 私、ずっと姉が欲しかったんです。憧れだったんです。もちろん
言って伏し目がちに姉さんからの返事を待った。
けれどしばらくはそれが来ることはなくて、ただ静けさが部屋に広がっていく。
高望みをしてしまった。元には戻らないにしても、同じような間柄にいたいと思ってしまっていた。
「さっきのは冗談です」とは口にしたくはないのだ。それでもそう伝えなければ困らせたままになる。この話はおしまいにしなければ。
思い切って顔を上げると、
「新しい家族ができたみたいで嬉しい」
震えた声で涙をこぼしながら微笑んでいた。
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