五月二十一日

 体育のテニス授業。高村さんとペアになった僕はボールの打ち合いを続けている。


「まひろちゃんは部活に入ったんだったよね? どう、楽しいっ?」

「うん! まあただ適当に過ごしてるだけだけどねっ」

「それでいいんじゃないかな。……あー、でもなぁっ」

「うん、どうかしたっ?」


 急に彼女の動きが止まって、打ち返す事もなくラリーは終わった。バウンドして転がっていくテニスボールは、グランドを仕切っている金網に当たると止まった。

 ネットの向かい側から、高村さんがこっちへと歩み寄ってくる。


「一緒に帰る事がなくなっちゃうのが残念だな。なんて……?」

 じっと僕を見つめながらそう言った。


「たしかにそうかもだけど。別にそれだけで疎遠になったりなんてしないでしょ。また一緒にお出かけとか遊んだりしよう!」

「そうだよね。まひろちゃんはいなくなったりしないもんね!」


 そう言うと彼女は転じて笑顔を見せた。


「そうだよ。だから心配しなくても大丈夫!」


***


 文芸部生活開始からはや四日。手馴れたように、だらしないのはわかっているけど、ソファーに腰掛け石動いするぎさんの蔵書を読み始める。

 入部から何人かの部員さんと挨拶を交わした。学年もクラスも違う人達との交流も決して悪くはない。まるで新しい刺激を得たように感じていた。


 ガラッと戸が引かれて開く。その時の僕は自宅にいるような気分ですっかり気が緩んでいた。


「あ」

「あ」


 見かけた事のない男の子と目が合う。おそらくこの人も部員なのだろう。彼はカバンを向かいの折りたたみテーブルにドカっという音と共に下ろす。

 それに気にせずそのまま次のページをめくる。


「見えてんで?」

 彼の第一声らしき物だけがこの静かな部屋に響いた。


「え?」

「いや。せやから、スカートの……」


 慌ててバッとスカートごと太ももを抑える。この体勢がいけなかったのは間違いない。


「あ、ごめ……」

「いやまあ謝られても。見るつもりはなかってん! でも見えてもうた……それはすまん」


 そそくさと遠くのパイプ椅子に座り、ばつの悪そうな様子で彼は問い掛ける。


「なあ、自分ってこの部におったっけ?」

「君がって事?」

 質問の意図がわからず彼をじっと見つめる。


「ちゃうて、自分の話やで?」


 彼の言葉のイントネーションは動画やテレビで聞き覚えがある。何となくだけど関西圏の人なのかもしれない。

 確か『自分』というのは相手の事を差す時の言葉だ。


「あ、私はつい最近ここに入った冬月って言います」

「ああ、ほんでか。どおりで知らへん顔なわけや!」

 オーバーな反応もいかにもそれっぽいなと思った。


「しっかし、この半端な時期によう入ってきたな~」

「あ、えっと……。石動いするぎさんに誘われてなんです、この部活の」


 ガタンとテーブルを突き上げるような勢いで彼は立ち上がった。


「それって。石動、まな?」

「はい、石動まな」

「マジで?」

「はい、マジで」


 彼はあからさまに落ち着かない様子で、僕の近くをぐるぐるとうろつき始めた。

 贔屓目ひいきめにみても不審者のそれに思えてならない。

 その一挙手一投足を凝視していると、


「なあ、冬月やったか。まな……いや石動とはどういう関係なん?」

「クラスが同じで、最近よく話したりしてる間柄ですけど……」


「おう、そうなんや?」

 言って近寄ってくると彼は正面のソファーに腰掛けた。泳いだ目と額の汗、かすかに上気した頬。言葉とは正反対に相変わらず落ち着いた様子はない。


「もしかしてストーカーの方ですか?」

「はぁっ!? 何を言い出すんや。んなわけあるかい!」

「はじめは皆そう言います。正直に話してください」

「いやちゃうんやって……」


 意気消沈とした反応を見るに、もしかするとそういうわけではないのかもしれない。


「ごめんなさい、名前……君が――えーっと。あまりにも挙動不審だったから」

「そっちからはそう見えてんか。いやぁ初対面でそれはきっついな。……でもほんまにちゃうからな? 俺は桂木、桂木隼人かつらぎはやと

「じゃあどこがどう違うのか、具体的に教えて貰えますか?」


 無言のにらみ合いがしばらく続く。


「ええい、しゃあない。それはな」


 痺れを切らした様子の彼がそう言い始めると、すぐに今日二度目となる引き戸が開く。


「やっほ、まひろ、ん? ――隼人まで」

「お、おう。まな」


 この様子だと少なくとも顔見知りではあるのだろう。ひとまず疑惑は晴れ模様に向かいつつある。


「石動さん。桂木君とは知り合いなの?」

「うん。中学の時に同じガッコだったの、それだけ」


 それだけ。

 桂木君の表情を見ているとわかりやすく沈んでいる。大きくショックを受けたような、友達とも認識されていない男の悲壮な顔は生まれて初めて見た。


「なるほど」

「冬月ぃ、その笑いはなんやねん……?」

「え、別に」


「あれ。もう仲良くなった?」

 僕の隣に座った石動さんは首を傾げていた。


「うん、まあ何となく色々と察し」

 言いかけると正面の桂木君は首を左右に振り、ウィンクを派手に崩したような合図を送ってくる。


「さっし?」

「あー、ここの部誌を見たいなって思って。どこかに保管されてたりする?」

「する。見る?」

「見る!」


 石動さんは「待ってて」と隣の部屋に消えていく。


「好きなの?」

 ひそひそ声で桂木君に言葉を投げる。


「何がやねん」

「石動さんの事、好きなの?」

「はぁっ!?」

「もう少し声を抑えないと彼女に聞こえちゃうよ」


 視線を石動さんのいる部屋の方に向けたまま


「――だったら、何やねん……」

 と小さな声で発する。


「いやぁ、よかったら話だけでも聞かせて貰えたらと思って」

「はぁ……それはどういう」

「もしかしたら、何かお手伝いができるかもしれないし?」


 彼は腕組みをすると考え込んでいる。さすがに出すぎた申し出だったかもしれない。


「そういうのいらないんだったら、言ってくれれば絶対にお邪魔はしないから」

「なあ。不思議なんやけど、初対面のよく分からん人間にどうしてそこまでしようと思ったんや?」


 あの時の自分を見てるみたいで、辛くて苦しくて、どうしようもなくて、


「何か放っておけなかったから」

「ただの同情か……?」

「そうなっちゃうね、ごめん」


 彼は何かを考えていたのか間が空く。

 そして「ちょっと考えさせてくれや」と返事がくる。


「やっぱり信用されてないかな?」

「いや。まなの知り合いの時点でそれはないけど。ま、俺も男やし。一応プライドっちゅーもんはあるからな」

「そっか。じゃあもしダメそうだったら教えてよ」

「ああ、覚えておくわ」


 直後隣の部屋から声がする。


「まひろん、あったよ」

「おー、ありがとー!」

「じゃ、俺はこれで帰るわ」


 過去のものだという部誌をパラパラとめくる。完全に流れで頼んだとはいえそれぞれの小説などが載っていて強く興味を惹かれた。

 しばらく夢中で読み進めていると、


「おもしろい?」

 甘い匂いと共に石動さんが間近で僕を見つめていた。


「うん。こういうのって誰でもできるの?」

「できる。まひろんもやってみる?」

「いつかやってみたいなー」


 まさかそれが思いがけない展開になろうとは、この時の僕には想像すらできなかった。

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