第3話

午後、今日は久々に定時に仕事が終わった。喜んで、会社の従業員出入り口まで行った和季だが、辿り着いた瞬間、彼の喜びはしぼんでしまった。


「雨かよ……」


 そういえば、今朝は天気予報を見忘れていた。傘なんか持っていない。でも、駅まではそれなりの距離を歩くし、近くにコンビニがないから傘を買うことすら出来ない。がっくりしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。


「国守君、もしかして、お困り?」


「南さん」


 傘を片手に、声を掛けてきたのは受付の香苗だった。美人で評判なだけある。ファッションセンスもなかなかだ。爪にもマニキュアが綺麗に塗られている。化粧も程よく、薄赤い唇が魅力的だ。


「駅まで相合傘しましょうか?」


「は?」


「お困りでしょ~?さ、行きましょ、国守君♪」


「ちょ、ちょっと!」


 断る隙を与えず、香苗は和季の腕を取って、歩き出した。半ば引っ張られるようにして、和季は会社を出た。濡れるのは嫌だし、傘がないから困ってはいたが、これは、どうだろう?香苗は27才と決してめちゃめちゃ若いわけではないが、会社一の美人だ。嬉しくないと言えば嘘になるが、複雑な気分である。


 そんな複雑な気分のまま駅に着き、傘を買おうとしたが、香苗に邪魔され無理やり電車に乗せられてしまった。45分、なんてことない世間話をしていると、和季の降りる駅に着いた。


「それじゃ、南さん、ありがと――」


「それじゃ、お家までお送り致しましょうね」


「?!」


 お礼を言って別れようとした和季だったが、予想外に香苗は和季の手を再びとって一緒に電車を降りてしまった。確か、香苗の自宅はここから電車で三駅先だったはずだ。驚いて、和季は言葉も出ない。


 駅の出口で、傘を開きながら、香苗は驚いたままの和季にふっと微笑みかけた。


「国守君、磨けばいい男になるのに、もったいないわ」


「何言ってるんですか。とにかく、ここまででいいですから、後は適当に傘買って――」

 


 ぱしゃん。

 


 水溜りに靴を踏み入れた時の音と、人の気配がして、和季は香苗から視線を逸らした。目の前にいたのは、ジーンズにTシャツ姿のポニーテールの女の子。可愛らしい、二重の瞳が、潤みながらこちらを見ている。


「傘、持って行かなかったから、困ると、思ったんだけど……」


「沙良……」


 片手には傘を差して、もう片方の手には和季の傘を握っている。握っている手が、震えている。


「いらないよねっ!」


 沙良は涙ぐんだ声で苦しそうにそう叫ぶと、和季に背を向けて走り去ってしまった。何が起こったのか分からない香苗が、和季を見る。


「あの子、お昼の子?どうして?」


「すいません、南さん。俺、行かないと!」


「国守君?!」


 香苗の手を振り解き、和季は雨の中走り出した。何も考えていなかった。香苗に沙良のことをどう思われたとか。雨の中傘もささないで全力疾走しているサラリーマンなんて、普通じゃないとか。


 ただ、沙良が目の前からいなくなってしまうことだけは、どうしても嫌だ。それだけが、頭を支配して、和季の足を走らせていた。


 公園の手前で、沙良を見つけた。沙良も和季に気付き、必死に走る。だが、男である和季のほうが当然足が速いため、彼女は公園の遊具の前で彼に捕まった。


「いらないんでしょう?迷惑なんでしょう?私がまだ子供で、お爺様の孫だからっ!!」


「違う!!」


 びしょ濡れになって、和季が叫んだ。沙良の手を強く握り、彼女の瞳を見つめる。


「謝りたかったんだ。弁当のこと、持ってきてくれて、ほんとは嬉しかったんだ。信じられないけど、俺は、普通じゃないこの毎日が好きらしい」


 諦めたように、けれど嬉しそうに和季は笑う。沙良は黙って、和季を傘に入れた。


「言うの、遅いよ。サラはちっちゃい頃からずっと、優しい親戚のお兄ちゃんが好きだったんだから」


 和季の手に、水滴が落ちた。傘に入っているのにおかしいと思って、彼はもう一度沙良

の瞳を見つめた。雨は円らな瞳から零れていた。


「俺、お前から見たらオジサンだぞ?」


 流れる涙を指で掬いながら、和季が尋ねる。沙良はくすっと笑って、泣きながらいつもの可愛らしい笑顔を見せた。


「うん。知ってるよ。……今回のこと、許してあげるけど、サラは本気で怒ってたんだからね」


「分かってる、悪かった」


「それじゃ、来年の誕生日は、私の欲しいものをくれる?」


 唐突なおねだりに、和季は内心首を傾げたが、怒らせて泣かせてしまった手前、当然だ

ろうと思って頷いた。


 沙良は泣くのをやめて、にっこりと、無邪気でとても幸せそうな笑みを浮かべた。


「約束だからね」


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