第2話


 いつもどおり、今日も仕事をこなす。なるべくこの非日常を人に知られないよう、会社では特に気をつけて言動に注意している。同僚にも、絶対に沙良のことは話さない。


 だが、今日、和季は重大な忘れ物をしていたことに気がついた。


(弁当、ない……)


 毎日、断るのに無理やり沙良が作っている“愛妻弁当”。それを忘れていた。なんだかんだで、和季はもう3年間沙良と暮らしていた。何度も実家へ送り返そうと試みたが、年中出張で、各地を飛び回っている彼女の両親は話を避けて捕まらないし、親戚の人間はお爺様を怖がって誰も沙良を引き取ってはくれなかったのである。


 それに、和季は、弁当を忘れて残念だと思う自分に気がついていた。


「光源氏……」


 ぼそっとつぶやくのは昔古文の授業で習った物語の主人公。こんなロリコン理解できないと当時は思ったものだが、沙良に好意を抱く自分が確かにここにいる。彼女が高校に進学した後のことを、和季はぼんやりと考えていた。


 と、その時。突然デスクの電話がなった。慌てて現実に戻って受話器を取ると、相手は美人で評判な受付嬢だった。


「国守君。蔵本様がお見えです。……ねぇ、誰なの?この可愛い幼顔の女性は」


「すぐ行きますっ!」


 同期の受付嬢――香苗(27歳)――のからかいを完全無視し、和季は少し乱暴に電話を切った。バレないように、懸命な努力で会社に3年間隠し通してきた、ごく普通のサラリーマンに、最大の危機が訪れた。


 階段を早足で降りて一階の受付へ行くと、古いロングスカートとカーディガンで年齢を誤魔化した沙良が待っていた。普段は束ねている髪を下ろして、和季のスペアの眼鏡をかけている。変装の努力は認めるが、どう見ても10代後半の女の子だった。


「…………きちゃった♪」


「…………どちら様ですか?」


 えへっと笑う沙良を見て、和季の眉間に皺が刻まれる。冷めた視線で見下ろされ、沙良はムカッとした。いつもの調子で睨み、和季のスーツの胸倉を摑みにかかる。


「ひっどい!サラはわざわざ忘れも――」


「あー!わ、分かったから、静かにしろ」


 突然、受付の前で大声を出しそうになった沙良の口を、和季の掌が塞ぐ。もごもごと不服そうに文句を言う沙良に、人差し指で“しーっ!”の駄目押しの合図をしてから、和季は手を離す。変装少女はしばらく黙って、上目遣いにサラリーマンをじっと睨んだ。


「頼むから、会社で大声は出すなよ。で、何?受験勉強ほったらかしでこんなとこまできて」


 会社に家の事情を隠している和季は沙良に早く帰って欲しかった。そして、もう二度と会社に来て欲しくはなかった。非日常を、和季は嫌う。せめて職場でだけは“自分は普通だ”と思いたいのだ。


 沙良は現在受験間近の中学三年生。今日は行事の振り替え休日で学校は休みである。そんな女の子と婚約していて、しかも一緒に住んでいるなんて、普通じゃないのだ。


「……これ」


 むすっとしたまま、沙良は小さな紙袋を和季の胸の辺りに押し付けた。中身を見ると、それは毎朝沙良が作る“愛妻弁当”だった。和季は、何も言えなかった。いつもは文句をありったけぶちまける沙良なのに、ただ黙っている。相当、怒っている。


「……それだけ」


 ぽつりと呟いて、沙良は走って出て行ってしまった。


「沙良っ……」


 追いかけそうになって、和季は自制する。自分は大人なのだ。ここは会社で、あの子は和季の認めたくない非日常の象徴なのだ。だから、これでいいはず……。


(相手は15の子供だぞ?どうかしてる……)


 受付嬢、香苗の不審な視線を受けつつ、和季は階段を上っていった。自分のデスクにつく頃にはすでに昼休みの音楽が鳴っていて、同僚達はそれぞれ昼食を食べに出かけていった。デスクに一人、和季はどこかすっきりしない気分のまま、沙良の持ってきた弁当を開ける。


「ん?」


 紙袋の底、弁当の下に、小さなメモが入っていた。折りたたまれたメモを広げると、一言だけ。



 “無理しちゃダメだよ!”



(最近、忙しくて残業続きだったからな)


 天使の柄の、丸っこいカラフルなメモ用紙。いかにも女子中学生の持ち物だ。しかし、和季は込み上げてくる温かい感情を否定することができなかった。


(帰ったら、謝ろう)


 決意して、和季は“愛妻弁当”を食べ始めた。

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