第15話

 愛はあのプチ家出後も時々顔を傷つけていた。夜に物音がすると不安になるのは簡単に治らないようで、そんな時に安心を求めるように顔を傷つける。

 インターネットで調べると箇所は違えど、そういう行為に及ぶ人はわりといるらしい。愛だけじゃないみたい、と伝えた時に愛はぽろぽろと泣きだした。


 やめたいけど、やめられない。本当はもっとのびのび生きたいのに、不安に潰されそうになりながら毎日を送っている。


 不安を少しでも和らげる方法を愛の母親とも探して、手探りながらも愛は治療に取り組んでいる。鳥栖の病院にも紹介状を書いてもらえるそうだ。


「愛が愛のまま生きていけることを、祈っとるよ」

「ありがとう。瑞希も」

「あたしも?」

「うん。よく分からんけど、瑞希も瑞希のままで生きてほしい」


 愛は足を止めて、あたしの目を真っ直ぐに見ている。愛の視線があまりにぶれないので、あたしも逸らせない。

 あたしがあたしのままで生きるなら、愛には伝えておきたかった。檻の鍵を開けてあたしを解放してやると、愛はほんの少し驚いていた。


 それでも愛の視線がぶれることはない。いつだって、優しくて眩しい。そして、ほんのりと甘い香りがした。



 窓を開けると潮風が入り込む。今日もいい天気になりそうだ。

 僕は今、とある離島のカフェで雇われ店長をしている。地元の人が集まってのんびり過ごせる空間作りに尽力する毎日だ。


 この島に来てからは、愛と会っていない。愛は三年前に二十四歳で結婚して、今や一児の母でもあるのでなかなかこの島まで赴くのは難しい。僕が愛の元へ行けばいいんだろうけど、僕も上手いこと休みが取れない。


 一応、連絡は取り合っている。最後に会ったのは僕がこの島にやって来る直前なので、一年前くらいだ。


 ──瑞希、のびのび過ごせとるようやね。


 愛は僕のことを見て安堵の表情を浮かべていた。そう言う愛の顔にはうっすらと白いあとが残っていたが、新しい傷はなかった。だから、「愛もね」と返したら、満足そうに微笑んでいた。

 僕は、多分ずっとなりたかった僕に少しだけ近づいた。生まれたままの姿形ではあるけど、今はまだそれを変えなくてもいいかなと思っている。


 僕はおかしいわけじゃないし、ただ生きているだけ。その答えに辿り着いたのは僕と愛がプチ家出をした時から割とすぐ後のことだった。テレビでたまたまそういう人がいることを知って、僕もそうなんだと思った。


 僕は完全に僕になったわけではないけど──僕はしばらくこのままでいい。欲を言えば、月のものはなくなってほしいと思うけど。


 朝の光を浴びながらブラックコーヒーを飲んだら、すっきりとした苦味が舌の上に広がった。僕はそれを、ただ『美味しい』と思った。

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愛のまま 来宮ハル @kinomi_haru

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