第10話

 愛はそんなあたしのことを知らずに、いつものように数学を教えてくれる。公式に数字を当てはめるだけ、と数学が得意な人の鉄板の台詞を吐きながら。


「公式に当てはめてるはずやっとに、答え出らん」

「使う公式が違うとかも。それか計算ミスか」

「ひとつ間違えただけで、答えが出らんなんて厳しかあ」

「それが数学ってやつですよ。あたしは答えがひとつとは限らんとに、答えを求めてくる現代文の方が厳しいと思う」


 ──偏見だけど、数学が得意な人ってそういうことをよく言う気がする。


 途中で何かひとつ間違えると一生正解に辿り着けないか、答えがひとつとは限らないのに答えを探し回るのか、どっちが楽なんだろう。


 昼頃から四時間ほど居座って、さすがに店員さんの目が気になったので、あたし達はこそこそとスタバを出た。ガラスのドアを開けた途端に、獲物を見つけたスズメバチみたいに熱気はあたし達を容赦無く攻撃する。ふたり揃って「うええ」と声を上げた。


「まだ帰りたくないなあ」


 愛は手で首元を仰ぎながら言った。またあたしと同じ気持ちだ。あたしは地面から数ミリかかとを浮かせる。


「あたしもそう思っとった」

「よっしゃ。しばらく駄弁れるとこ行こう」

「んー、じゃあマックは?」


 ここのスタバから歩いて数分のところにあるマック。この時間帯は部活や補習授業が終わった高校生で溢れている。あたし達は少し違うけど、彼らとほぼ同じだ。

 スタバで甘い飲み物をたっぷり飲んだというのに、あたしも愛もコーラとSサイズのポテトを注文した。しっかりとお腹に入ってしまうのは、やはり別腹が存在するからだろうか。それともただの食べ盛り?


 ふたりとももう勉強をする気力はなくて、ただ他愛もない話をして、ポテトを食べて、コーラを飲む。心ばかし、いつもよりゆっくりとポテトを運んだ。


「愛、左もやったんだね」


 愛の顔にはもうひとつ新しい傷が増えていた。いつもは右頬だけなのに、左頬にも薄く線が入っている。愛は右利きだから、右頬が傷をつけやすいはずなのに左にも入っているなんて。確かにもう、右頬には傷をつける場所がない。


 左頬はこれまでつるんとした陶器のような肌だったのに、一本薄い線が入ってしまった。


「うん。右はもう傷がたくさんあるし」

「だからって、左やるかね?」

「あんまり重ねてつけすぎると、傷あとがえぐくなるけんね。右の傷、今でももう大分えぐいし」


 その言葉が意外だった。愛はてっきり傷あとのことなんてあまり気にしていないと思いきや。

 愛の言う通り右頬は傷を重ねた部分が白く浮き上がっている。治りかけてはまた傷を開くから、身体が治癒を諦めてしまった。愛も多分それを分かっているんだろう。

 それでも愛はやめられなくて、ついに左頬にも刃を立てたわけだ。


「……どうして、愛の顔ばかり傷つかんといけんのかな」

「瑞希?」


 あたしは愛の顔から傷が消えるところを見たかった。愛ばかりが傷つく世界から愛を連れ出したい。愛が苦しんで犠牲になってまで自分を守ろうとしなくてもいい、そんな世界で生きてほしい。

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