第9話

 愛が開いていたのは現代文の問題集だ。問題文を追いかける伏せた目の輪郭には、まつ毛がびっしりと隙間なく並んでいる。しかも一本一本が太くて、くるんと空を向いていた。

 愛は問題文に線を引いたり、丸をつけたりしながら答えを導いていて、その度にまつ毛が揺れる。


「どうしたと? 瑞希」

「……ううん。現代文、結構宿題多かよね」

「多かねえ。あたし、現代文苦手やけん、しんどい」


 愛はくるくると指でシャーペンを回した。


「なんかさ、登場人物の気持ちを答えよとか……そんなのわざわざ問題にせんでもって思うさね。話くらい好きに読ましてって思う」

「現代文の先生が聞いたら怒りそうやね」

「まあねえ。でも人の気持ちなんて分かるわけなか。文章で読み取ろうって、無理と思わん?」

「愛って面白かね」


 マスクの下で愛はふふ、と声を漏らす。目がきゅっと細まったので、どうやら笑っているらしく安心した。

 あたしは自分で現代文が得意だとは思っていたけど、もしかするとそうでもないかもしれない。今までいい点数が取れていたのは、解答の選択肢を上手く当てていただけなんだろう。

 じゃなきゃ、あたしは愛の胸の肉の下を知りたいだなんて、強く願ったりしない。



 ここ三日くらい続けて愛の夢を見ている。一日目はいつもの通り愛と図書室で過ごして本を読んでいた。二日目は公園で愛とソーダアイスを食べているだけだった。三日目は、あたしは何故か男で愛を抱き寄せていた。


 三日目の朝は額がじっとりと汗で湿っていて、目を開けるなり黒いタンクトップに覆われた胸が上下しているのが見えた。首を絞められたような気分で、最悪の目覚めだ。


 隠しこんでいた『あたし』の存在に、あたしは気づいてしまった。頑丈な檻に入れて鍵を何重にもかけていたあたし。


 本当は昔からずっとずっと檻の柵をがしゃがしゃと鳴らし続けていたのに、耳を塞いでいた。

 だけど、今はっきりと気づいた。それは耳を塞いでもいやというほど鳴り響いてきたからだ。


 今日は街中にあるカフェで愛と宿題をしている。愛は昨日給料日だったらしく、ちょっと高価な飲み物がいいと言ったので、スタバに入った。

 ちょっといい飲み物といっても、クリームをもりもりに乗せた冷たくて甘いフラペチーノ。でも一杯五百円以上はするし、高校生のあたし達にとってはちょっとした贅沢だ。


「現実から、逃げたい」


 そんな甘い飲み物を片手に、あたしはしょっぱい言葉を吐き出した。目の前の愛はシャーペンを動かす手を止めて、マスクの下で顔を曇らせる。

 しまった、とあたしは誤魔化す言葉を必死に探した。慌ててフラペチーノを一気に吸ったら、頭がキーンと痛む。


「……いや、えっと、休み明けのテスト。やだなあって」

「ああ、そうね。でもテストは学生の宿命やし」

「そうなんやけど、やっぱやだなあ。あたし、今回の数学の範囲自信がないっさね」

「瑞希は数学苦手やもんね」


 まったく進んでいないあたしの問題集を指差して、愛の猫みたいな目の上下のまつ毛がゆっくりと重なっていく。問題がまったく解けていないことがどうでもよくなるくらいに、あたしはそれに見入っていた。

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