第5話
愛が中学二年生の時。愛の母が不在にも関わらず、その彼氏が家にやってきて愛に触れようとした。
「あたしの顔は『いやらしい』ってそいつが言いよった。まあ、逃げて助かったけど」
こんな顔でさえなければと愛は近くにあったカッターナイフを顔に突き立てた。初めて傷をつけた時は力加減が分からなくて深くやりすぎたと愛は笑っていた。
愛はその時の傷あとを指さす。確かに二センチほどの白い線があった。
例の母親の彼氏が愛を見るなり、顔の傷に引いて手を出さなくなったらしい。
だから常に傷をつけ続ける。母親の彼氏が変わっても、クラスが変わっても、愛はずっとそうやって安心を得る。
「……まあ、そんなとこ。ママにはやめろって言われるけどさ、やめられん」
「その男の人に……されそうになったのは、お母さんには……」
「言うわけないやろ。ママがそげんこと知ったら泣くよ。まあ、そいつとはとっくに別れたけどね」
愛はぐっと背伸びをした。こんな話をした後だというのに愛は試験の最終日みたいに晴れやかな顔だ。あたしの方が辛気臭い顔をしている。
愛が顔に傷をつけることをあたしは咎められない。愛にそれをやめさせたところで、あたしは愛のことを完全に守ってあげられないから。あたしがもっと大人で、賢いならばそれが可能だったかも──というのは思い上がりだろうか。
調子に乗っているような気がして、あたしは愛に何も伝えることが出来なかった。
「あたしも瑞希も、なーんも考えなくてさ、ただ自分のこと好きだって思って、のびのび生きられたらよかとにね」
ねっ、と愛はマスクの下で笑う。あたしは愛の言葉にただ頷くしか出来なかった。ごまかすようにカップの中の空気を吸う。
「愛、話してくれてありがとう」
帰り際にそう伝えると、愛はあたしの手をぎゅっと握ってぶんぶんと横に振る。
「うん。瑞希も、瑞希のこと話してくれてありがと。嬉しかった」
じゃあね、と愛はあたしの手を離した。すっかり薄暗くなった空のせいか、ほんの少しだけ寂しくなった。また、明日も会えるのに。
愛は火木土に回転寿司のチェーン店でバイトをしている。顔に傷があるのでホールに回ることはなく、ずっとキッチンで寿司を作っているそうだ。機械で握られるシャリの上にネタを次々に乗せていく。
寿司がレーンに乗って次々にやってくる様を思い浮かべた。愛があれを作っているんだと思うと、ちょっと可笑しい。なんか似合わない。
平日は夜の六時から九時まで働いている。ちゃんとまかないも出るんだとか。でも刺身が乗ったご飯にわさび醤油をかけただけだと愛は不満そうだった。
愛はバイトをして家計を助けているらしく、税金がかからない程度に稼がないといけないんだと笑っていた。
税金の仕組みとやらはあたし達にはよく分からないけど、稼ぎすぎると愛は法律上独り立ちすることになるらしい。それはまずいと母親に言い聞かされている、と愛は腕を組んでいた。瑞希も覚えておいた方がいいと言われた。
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