第2話

 教室のドアを開けると、種類の違う柔軟剤の香りがいくつか入り混じった空気が、鼻先をくすぐる。おはようと言う前に、あたしは豪快なくしゃみをした。


「瑞希、おはよう。そのくしゃみはやばかろ」

「女子高生にあるまじきくしゃみやね。おっさんやった」


 一年の時から同じクラスだった真帆まほ絵里奈えりながドアのすぐ側の席でけらけらと笑う。あたしはただくしゃみをしただけなのに。

 おはようと返して、今年もふたりと同じクラスであることに安堵する。新しい友人を作るのは骨が折れるからだ。相手がどういう人間で、どういう風に付き合っていくべきかを探る必要がある。


 机には名前が書かれた紙がセロテープで貼りつけられている。担任がひとつひとつ丁寧に貼ったんだろうと思うと、教師って大変だなあと頭が下がる。


 窓際の席で静かに本を読んでいる女生徒がふと目に留まる。名前と顔だけは知っている、平野ひらのあいだ。

 平野さんはどんなに暑くても顔の半分以上を不織布のマスクで覆っている。

 涙袋は作り物みたいに膨らんでいた。顔の横顔を覆う黒髪の隙間から、白い肌と赤黒い線がちらりと見えた。


 平野さんの顔には大きな傷がある。きっとそれを隠すためのマスクなんだろう。

 平野さんは本に集中して、教室の騒がしさからひとり切り離されているように見えた。それはこの教室で多分良しとされないんだろうけど、あたしにはそれが美しく見えてしまった。


 始業式を終えると、担任の先生から挨拶があった。それからクラス内で必要な決め事をしていく。学級委員を決めるところから始まり、生徒全員に学校内の仕事が割り振られていく。

 あたしは比較的楽そうな環境美化委員を希望したが、考えることは皆同じらしく希望する人が集中した。残念ながらじゃんけんで負けたあたしは図書委員に回される。


 ──図書委員か。当番は面倒だけど。


 学級委員はふたり。どちらも利発そうな女生徒で、早速黒板の前に立って皆を導く。あたしには真似できないなあと思いながら、その子達を見ていた。



 図書委員の仕事は主に図書室のカウンター当番と、図書室に置く本の選定、あとはおすすめ本の紹介。カウンターに座っていればいいと思っていたけど、意外にも仕事が多い。簡易的ではあるけど、傷ついた本の修復なんかもやっている。

 放課後の図書室は本を借りにくる生徒が多い。読書スペースも半分以上の座席は常に埋まっている。若者の活字離れが嘆かれていると聞くけど、それは嘘なんじゃないか。皆、熱心に本を読んでいる。


 カウンター当番は一週間ごとに交代制。あたしが担当したのは五月のゴールデンウィーク後の週だった。

 あたしが当番だった今週の月曜日と、水曜日、平野さんが閉館時間まで本を読んでいた。でも借りてはいかないようだ。司書の先生も「あの子いつも熱心に本を読んでるのよ」と嬉しそうに言っていた。


 金曜日の放課後、平野さんはいつも通り読書に夢中。夢中になりすぎて閉館時間に気づいていないようだったから声をかけた。クラスで誰とも話さないし、それを気に留めないような、どこか異質さを纏う平野さん。ちょっと意外な面だ。


「いつも本読んどるね。本、好きと?」

「うん。タダで読めるし」

「そっか、借りていったらよかとに」

「んー、家ではあんま読まんし。ここで読むとが好き」


 平野さんは本を閉じて立ち上がる。手にしていたのは最近流行のSF小説だった。


「SF小説読むとね。ちょっと意外」

「あはは、実はなんでも読むとよ。でも可哀想すぎる話は好かんかな。爽快なやつがよかね」

 本棚に戻すと、平野さんは優しく背表紙を押す。遅くまでごめんねと眉毛を下げた平野さんはどこにでもいる女子高生に見えた。

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