○1-4 木曜日(3)

 先頭の執事が、部屋のドアを押し開けた。

 すでに孝太郎の亡骸なきがらは別室に移されたと聞き、内心ほっとしている瑠奈も、佐藤や富貴に続いて、今は無人となった部屋の中へと進んでいく。

 ここは、主により勝手に立ち入りが許されていない場所――事実上の立ち入り禁止区域である。そんな区域へと進む一行の顔は、緊張感にあふれていた。

 部屋に入った刹那だった。

 高校生探偵の浩輔が、妙なことを言いだしたのである。


「うわ! これは何の臭いだろう……ボクには初めてのものだな。甘いような苦いような……不思議な臭いだよ」

「臭い? 特に感じないけど」


 そう言ったのは、ここで人が亡くなる前に、その人とともに宿泊していた真央だった。

 今は、凹の形の屋敷の二階右下部分に当たる、富貴の部屋の隣に移っている。


「木曜日の浩輔――モッキーは、五感で推理するんだから、余計なこと言わないでよね」

「……わかったわよ」

「だけど――」


 浩輔は、注目の的となりながら、首を振った。


「もう、この部屋はここにいる全員分のにおいで溢れてしまっている。微かに感じるそのにおいの正体を、今は解き明かすことは難しい。そして――どれが犯人のにおいであるのかも」

「昨日も、部屋のにおいは嗅いだでしょ。そのときにはわからなかったの?」


 真央の嫌味な言葉にも、浩輔は動じなかった。


「昨日のボクは、ボクではありません。ボクは、生まれ変わったんです……って、そこに落ちているものは何ですか?」

「ええっと……それは一輪挿いちりんざしです。七曜さま」

「一輪挿し?」


 それは、まるでおとぎ話のピノキオの鼻のように三角形の形をした細長い木製品だった。いいかえれば、縄文時代の土器の細いやつ、もしくは、細長い弾丸の形。

 それが、ベッドシーツの上、孝太郎が使っていた枕の影に隠れるようにして落ちている。

 瑠奈には、彼の臨終の地となった場所のすぐ横で、まるで積み木遊びをした子供が誰かにとられてしまうのを心配したかのように、ひっそりとそれを隠したかのように思えた。


「きっと、何かの拍子に落ちたのよ。そこの壁に掛けてあったのが、ね……」


 そこはあまり触れられたくはない、といった感じの真央が忌々しそうに言った。

 浩輔は「ふうん」と気のない返事をすると、どこから取り出してきたのか白い手袋をはめ、落ちていた一輪挿しをそっと掴んで観察を始めた。

 縦の長さは15センチほど。

 幅は紐の付いている太い方が約3センチで、上から覗くと中心に直径1センチほどの穴が開いている。そこにプラスチック容器のようなものがはめられており、その中に少量の水とともに花の付いた枝を挿すようになっている。


「……これ、花の匂いがしないな。ここ数日、花は挿してなかったようだね」


 一輪挿しに付着したにおいをくんかくんかと嗅ぎながら、浩輔が言った。

 それに対し、意外そうな顔を見せて執事が「そんなはずはないですが」と呟く。真央は、その言葉が聞こえないふりをした。

 一輪挿しを手にしたまま、浩輔がベッド際の壁に着目する。


「一輪挿しはここに掛けてあったんですね?」

「そう。紐でぶら下がってたわ」

「部屋のいろどりとして、私めがそこにかけておいたのでございます。孝太郎さまと真央さまがいらしたときは、花も活けてあったはずなのですが……」

「そ、それは……」


 浩輔が指さした位置は、ちょうど孝太郎が倒れていた位置の真上だった。

 そこには、一輪挿しの紐を引っ掛けていたらしい、丸くて透明なプラスチック部品が先端についたピンが一本、刺さっている。


「一輪挿しは、何かの衝撃で落ちたみたいですね。状況から、孝太郎さんが絶命したときと何か関連があると思われます」

「関連って?」


 瑠奈が探偵助手的な質問をする。

 それに対し、暫し考えた末に浩輔が言った。


「そりゃあ、ナイフを自分の額に刺したとき、あまりの痛さにベッド上で暴れてしまったってことじゃないかな。だとすれば、昨日のボクと瑠奈、真央さんが見たという黒い影の正体が本人だったという事にもなるし」

「でも、やっぱり気になるのは額に刺さったナイフよね。真央さんも言ってたけど、自殺するのに、どうして額なんかにわざわざ――」

「さあね。そこまではボクにもわからないよ。……あ、でも、ちょっと待って!」


 浩輔が瑠奈との会話を止めてまで注目したのは、一輪挿しのプラスチック部分だった。

 うーむ、とひとうなりした後、彼が言う。


「よく見ると、この一輪挿しの花を挿す部分に何やら加工した跡があるね。もしかしたら、自力で刺すのが怖くなって、一輪挿しにナイフを固定して全体の重みを増やしたあと、自由落下させて自分の額に刺さるようにした――ってことかも」

「そうなの? 何とも回りくどい気がするけど……」


 高校生探偵の推理が、昼休みの高校生同士がする他愛もない会話のようだ。

 それを、格調高い事務机の横に並んで立つメイドの美樹と沙樹が、完璧に揃った声で、遮った。二人の視線は、机横に置かれたゴミ箱に向かっている。


「七曜さま! しおれた花が一輪、ゴミ箱の中に入ってます」


 それを聞いた浩輔が、軽く頷いた。


「なるほど……。ということは、彼が自殺をしたとき、この一輪挿しに花が挿されていなかったのは間違いありませんね。そこに何か別の物が入っていた可能性が、高いです」

「……」


 引きった、真央の頬。

 だが、そんなことなど気付かぬ浩輔が、まるで電池の切れてしまったおもちゃのように急に肩を落として言った。


「しかし、残念ながら私の推理もここで時間切れです。なぜなら、お腹が空っぽになったからでして……。美樹さん沙樹さん、お昼ごはん、カレー作れますか? もちろん、大盛でお願いします!」

「はい、よろこんで!」


 再び完璧に揃った双子の声。

 高校生探偵の再びの空腹状況発生により、捜査は一時打ち切られたのだった。

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