○1-3 水曜日(1)

 今日生まれたばかりの太陽が、森を覆っていた闇を追い払った。

 だが、この森には人知れず本当の闇が迫っていた。

 昨日、カーが面白半分に――あるいは予言として――まくし立てていたように、この別荘で『事件』が起きてしまったのだ。


「大変、大変! スゥちゃん起きて!」


 早朝5時。

 瑠奈が、浩輔の眠る来客用の個室――『凹』の形で言えば左下の部分にあたる部屋――のドアを、ドンドンと叩きながら叫んだ。

 なお、『スゥちゃん』とは水曜日の浩輔の呼び名『スウィート』をさらに瑠奈が呼びやすくした名前で、水曜日の『水』と、甘えんぼうの性格をもじったものである。話す言葉の語尾が、例えば猫の鳴き声のように甘ったるく伸びてしまうことが彼の特徴だった。


「なあにぃ、瑠奈ちゃん……。朝からうるさいなぁ」


 ベッドにもぐりこんだまま、まるで生クリームたっぷりのケーキのように甘ったるい声を出した浩輔。

 別人格ではあるけれども、体はひとつなのだ。

 昨日のはしゃぎ過ぎた夜更かしが、朝の彼の体力を奪っていた。


「だから大変なんだって! 運転手の立花さんの姿が見当たらないのよ。このままじゃ、学校にいけないし、帰れもしない」

「学校にいけないのぉ? じゃあ、このまましばらく寝かせてくれててもいいじゃぁーん」

「……いいから、スゥちゃん。とにかく・・・・今すぐ起きなさいッ!」


 まるでお母さんのように叱る瑠奈。

 浩輔は仕方なく、ひどく筋肉痛のする体でベッドから起き上がった。

 持参した水玉模様のパジャマから制服にのろのろとした動きで着替える。それから、部屋にある小さな机に置かれた手帳――昨晩、人格が変わる前に『カー』が書いたメモ――を読み始めた。


「うわっ、゛火曜日の人゛の字が躍ってる。楽しそうだにゃあ……。ははん、なるほどなるほど。今、ぼくちゃんはそんなややこしい場所にいるのかぁ……こりゃあ、たいへんだにょ。昨日の人じゃないけど、この館、事件の香りがぷんぷかするもんっ」


 メモを読み終えると、甘ったるい溜息をひとつ漏らした。

 そして、何食わぬ顔で内鍵をがちゃりと開け、館の二階廊下に出た。すると彼の目前には、腕を組んで鬼のような形相をした瑠奈が立っていた。

 瞬時に身の危険を感じた浩輔。

 瑠奈を直視するのをやめた彼は、彼女の向こう側に聳える壁――各ゲストルームの小さな浴室とは別に建物中央部に位置する、公衆浴場並みに大きなバスルーム壁――に意識的に目を向ける。


「出てくるの、めっちゃ遅いわよ! もう、館の中はさっきから大変なんだよ、運転手の立花たちばなさんが姿を消してしまったって……」

「へえ、そうなんだにゃ」

「そうなんだにゃ、ってね……あんた、この事態が何を意味してるか分かってるの? まあ、いいわ、とにかくあんたも探すのを手伝いなさい!」

「はぁい」


 瑠奈に手を引っ張られた浩輔は、渋々、階段を下りて大広間に出る。

 内心、「ぼくちゃんが探したところで何の力にもならないにゃ」と思った彼だったが、口に出すと瑠奈にどやされそうなので、口には一切それを出さないことにした。

 しかし、大広間の『場』は浩輔が考えていたよりも緊張で張りつめていた。

 双子のメイドの姉、伊藤いとう美樹みきが浩輔と瑠奈のそばにやって来て耳打ちした話によれば、いつも立花は朝早く起きて厨房の手伝いをしてくれているのだが、今日に限っては姿を現さなかったとのことなのだ。

 しかも、何故か同時に専属料理人の太田おおたまでいなくなる始末――。

 その状況を今朝早々にメイド二人が富貴に報告し、今の状況に至ったのである。


「まずいな、リムジンを運転できるのは立花さんだけだし……。しかもシェフの太田さんまでいなくなってしまうなんて……。一体、どういうことなんだろう」


 大広間中央にある、ふかふかソファーに身を埋めながら、富貴が血の気の引いた表情で呟いた。

 そんな彼に増々悪い情報がもたらされたのは、その直後だった。

 それは、屋敷の外から戻って来た双子の妹のメイド、伊藤沙樹によるものだった。


「大変です、富貴坊ちゃま! 立花さんと太田さんばかりでなく、専用駐車場にあるはずのリムジンも見当たりません」

「なんだって!? 二人は、夜も明けないうちに勝手にリムジンでどこかに出かけたまま帰ってこないということなのか? 今まで、一度だってそんなことはなかったのに……。沙樹さん、彼らの携帯には連絡してみてくれました?」

「え、ええ……。実はもう何度も執事の佐藤さんから連絡しているのですが、一切反応がないとのことです」

「もしかしたら、二人は何かの事件に巻き込まれたのかもしれない……。でも、困ったな。僕もそうだけれど、こちらのお二人を学校に送り届けねばならないし」


 と、富貴の言葉を聞いて急に頭を下げたのは、沙樹の姉の美樹だった。


「すみません、富貴さま! きっと私のせいなんです!!」

「……どういうことですか?」


 皆の視線が美樹の頭頂部に集中する中で、富貴が冷静に受け答えた。


「実は……昨晩、私が太田シェフに進言したんです。急なお客様となった孝太郎さまや真央さまのお食事の材料が足りないから、買い出しをして対応された方が良いのでは、と……。きっと、それを聞いた立花さんが、深夜、車を出してくれたんですよ」

「そうだったのか。でもどうしてその後、音信不通に……? いったい、何があったんだろうか」

「さあ……そこまでは私にもわかりません」


 と、その台詞が放たれた刹那。

 ドン、というような、まるで雷が数個まとまって落ちたかのような音が、大広間に轟いたのである。

 暫く押し黙ったままだった一同が、戸惑った眼をしばたかせながら向き合った。


「今のは――何なの?」


 最初に口を開いたのは、瑠奈だった。

 珍しく怯えた表情を見せた彼女が、たくさんあるソファーの中のひとつに、ゆっくりと腰かけた。それを見た浩輔が、すぐに彼女の横に寄り添う。


「今のはさぁ、きっと爆弾の音だにゃ」

「ば、ばくだん?」

「だってさあ、゛昨日のぼくちゃん゛がメモに残してたもん。豪華な別荘に招かれざる二人の来客――これは絶対に何か起こるってね。だとしたら、爆弾に決まってるにゃ」

「何よその、根拠のない発言……」


 暫く続いた無言の世界。

 その後、気を取り直した富貴が行動を起こす。


「よし、じゃあ僕が見て来ます。佐藤さんは今どこに?」

「きっと、まだ立花さんたちを探してます」

「そうですか」


 この大広間のメイン設備ともいえる、恐ろしく長いソファーから富貴が立ち上がった。

 そのときだった。

 いつものクールな表情をかなぐり捨てて、血相を変えた執事が息を切らして玄関ホールから駆け込んできたのである。


「富貴さま、大変です! 吊り橋が無くなってます!!」

「橋が――無くなっている――ですって!? そんな馬鹿な……。では、先ほどの大きな音は橋が落下した音なのでしょうか?」

「ええ、多分そうだと思われます。私は先ほどまで表で二人を探していたのですが、ものすごい音がしたので、すぐに音のした方へ向かってみたのです。そしたら、行き着いた先は吊り橋でした。

 橋は……なんと言いますか、真ん中がぽっきりと折れたような形になってまして――」


 富貴と執事の緊迫した会話に、浩輔が口を挟む。


「それはねぇ、立花さんと太田さんの嫌がらせですよぉ、きっと」

「嫌がらせですって?」

「だってぇ、そうとしか考えられないじゃないですかぁ。二人が同時に消えて、連絡がつかないと来てる。その上、吊り橋とそれを渡るための車も消え失せたんですよぉ……。どう考えたって、こちらでの待遇が不満か何かでやった嫌がらせとしか思えないのにゃ」

「失礼だよ、七曜君! 物事には言っていいことと、悪いことがありますよ。誓って言いますが、彼らに限って、そんなはずはないです!」


 怒りに手を振るわせ、富貴が立ち上がる。

 それを見た瑠奈が、慌ててフォローに入った。


「ご、ごめんなさい、富貴君。スゥちゃん、悪気はない人なんだけど、ちょっと言い方が悪くてですね……。でも、一応言っときますと、彼――七曜浩輔君は、今まで何度か事件を解決した高校生探偵なんです」

「高校生探偵――!? 七曜君が? ま、まあ、たとえそうだとしても、僕は先ほどの言葉を素直に認めるわけにはいかない」

「そんなにムキになるってことは、思い当たることがあるんだねぇ」

「なんだと?」

「ちょ、ちょっと、スゥちゃん! もういい加減に――」


 珍しく感情を露わにした富貴が、頬を紅潮させている。

 そんな二人の間に割って入ろうと瑠奈がソファーから立ち上がったとき、ほんの少し前に起床したらしい、お揃いのガウン姿の扇孝太郎と高木真央の二人が、欠伸をしながら階段を下りて大広間にやって来たのである。


「なんだなんだ、騒がしいな。ゆっくりと寝てられないじゃないか……。それにしても、さっきの音、すごかったな。一体、何だったんだ?」

「それが……。孝太郎叔父さん、実はですね――」


 富貴は、今朝からの出来事を叔父とそのパートナーに説明を始めた。そのおかげか、冷静さを取り戻した富貴。

 瑠奈は、思わず冷や汗を拭った。

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