○1-1 月曜日(2)

「ふうう……ぎりぎり間に合ったわ……」

「っていうか、ちょっと間に合ってなかったけどね」


 校舎三階、二年A組の教室。

 既に始まったホームルームに、まさに滑り込むような格好で瑠奈と浩輔がそこに加わった。二人は同じクラスで、教室後方の隣り合う席なのだ。

 息の上がった小声で、瑠奈が言う。


「用務員の水戸みとさんがいてくれて助かったね」

「ああ、そうだな。水戸さんがとりなしてくれなかったら、二人とも遅刻扱いだったもん」


 そうなのである。

 校門に辿り着く直前に始業ベルが鳴り、校門で待ち構えていた取り締まり教師が「お前ら遅刻だぞ! そうやってちゃらちゃら一緒に登校してるから――」と二人につっかかっていたのを「まあまあ、今日は許してやってくださいな」と、とりなしてくれたのが、一年ほど前からこの学校に勤務している用務職員の水戸だったのだ。

 ――口数の少ない五十歳前後の男性で、髪の毛は若干薄め。

 人付き合いがあまりよくないせいか、海東学園に用務職員として働く前は何をしていたのかを知るものは、殆どいない。けれど決して人当たりがきついわけではなく、いつも柔和な笑顔で生徒たちを温かく見守っているような、そんな感じのおじさんである。

 と、そのとき教室の前の方から、高音域の周波数多めな『雷』が落ちた。


「あんたたち、遅れてきていきなり無駄話!? いい加減にしなさいよネ」


 それはこのクラスの担任で、三十歳を少し超えたくらいの女性、小野田おのだ沙理さりだった。灰色のパンツスーツの腰に掌を当てている彼女は英語教師であり、その口調が、帰国子女らしく語尾が少々巻き舌っぽくなるのが特徴だった。


「すみませーん」


 ぺこりと頭を下げた、瑠奈。

 仕方なしに瑠奈に合わせて浩輔も頭を下げる。

 クラスのあちこちで起きたのは、小さな失笑だった。

 担任は、小さくため息をついた後、「では、今日の伝達事項です」と、ホームルームを再始動した。



 やがてホームルームが終了し、1時間目の始まるまでの束の間の休息時間となる。

 一斉にピーチクパーチク始まったクラスが、突然、沈黙に包まれた。

 見れば、教室の入り口から同じ制服を着ているとは思えないくらいに洗練されたフォルムを伴った男子生徒がひとり、瑠奈と浩輔の机のところにやって来るではないか。

 すらりとした体型で、背の高さは180センチに少し足りない浩輔とほぼ同じくらいだった。彼が歩みを進めるたびに、垂れた前髪がキザな感じで揺れ動く。

 その前髪の動きに目を奪われている瑠奈の1メートル手前で、その男が立ち止まる。

 クラスメートの視線が集まることなどモノともせず、穏やかな顔をして彼は言った。


「やあ、久しぶりだね……三瀬さん」


 クラスの視線が、瑠奈に集中した。

 もちろん、浩輔の視線も瑠奈の方に向かった。その眼には「お前……こんなキザったらしい男と知り合いなのかよ?」という、疑いの意味が込められている。

 首を傾げて、戸惑う瑠奈。

 だが意を決した彼女は、その男子生徒に訊いてみた。


「えーっと、ワタシ……あなたとお知り合いでしたっけ?」

「え!? 僕のことわかりませんか? ショックだなあ……もしかして、浩輔君も?」


 男子生徒の視線だけが一斉に浩輔へと向いた。

 今度は、浩輔が慌てる番だった。

 もちろん、彼にも思い当たるふしはない。


「お、オレ!? ごめん……よくわからない」


 がっくりと肩を落とした、男。

 深くため息をつくと、彼らを咎めるような眼をしてこう言った。


「僕だよ、僕……。はやし 富貴とみたかだよ。幼いころ、君たち二人とよく一緒に近所の公園で遊んだだろう? 今は、おうぎという名字になったけどね」

「林君……? ああ、林君! 思い出したわ、あなた林君なのね」


 幼馴染との再会――。

 そんな感動的場面にも加わることができない、浩輔の表情がどんよりと曇る。

 とある時期から曜日ごとに人格が異なるようになった彼にとって、古い記憶はかなりあやふやなのである。


「七曜君は僕のこと、憶えてないのか……」


 扇富貴は、浩輔の困り顔をやや責めた目付でじっと覗き込んだ。

 そんな様子の浩輔を庇うように、瑠奈が言う。


「ゲッツ――ああ、月曜日の浩輔のことなんだけど――は、とある事情があって記憶が不確かな部分があるの。許してあげてもらえませんか」

「……事情?」

「ええ、事情です――って、いま気づいたけど、もしかしてさっき見かけた、あのチョコアイスみたいな車の持ち主はあなた?」

「チョコアイス? ああ、あれか……そうなんだ。あれはウチの車でね、父さん――再婚した母さんの旦那さんなんだけど――が、あの車で学校に通えって言うんだよ」

「へえ、そうなんだ。林君……じゃなくて扇君の家って、すごいお金持ちなんだね」

「まあ、そうかもね。で、もうすぐ授業も始まるし、そうそろ用件を言ってもいいかな」

「用件……? 何かしら」

「僕たち三人の再会を祝して、明日1泊でウチの別荘に二人で遊びに来ませんか? 確か明日はこの学校の創業者の誕生日とかで、休みなんですよ。明後日の朝には、そのまま学校に行けるように、きちんとリムジンでお送りしますので」

「明日が、休み? そうだったっけ……? まあ、いいや。ってことは、あのチョコアイスの車に乗れるってことよね? じゃあ、行きます。ぜひ、行きます。明日学校があったとしても、絶対に行きまーす!」


 とここで、興奮気味の瑠奈を制止するように、浩輔が会話に割って入った。


「ちょ、ちょっと! 勝手に決めるなよ、瑠奈。明日は用事が――」

「ぜんっぜん聞こえませーん。それでは明日、二人して遊びに行かせていただきますね!」

「ああ、良かった。嬉しいです。では明日の朝8時、別荘専属の運転手に車で迎えに行かせますので、それに乗っていらしてください」

「りょーかいっ!」


 2-A教室から去りゆく扇富貴の背中に向け、瑠奈が笑顔で手を振る。

 その瑠奈の顔面を、浩輔がむっとした表情で睨んだ。


「いやあ、楽しみだねッ」

「勝手に約束するなよ。それに、いつも゛オレ゛がいることがきっかけで何やらめんどくさい事件に巻き込まれている気がするし……。大丈夫かな」

「ふんっ。確かにあんたは巻き込まれ体質だけど、今回ばっかりは『被害妄想』だってことにしときなさい」

「なんだよそれ、意味わかんないよ……。とにかくオレは、嫌な予感しかしない」

「ワタシには、贅沢なご馳走の匂いしかしないわ」

「おめでたいやつだな……」


 浩輔は、思いっきり肩をすくめた。

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