第23話

 予報どおりに灰色に染まった空から、真っ白な雪が一粒一粒、舞うように降りてきていた。


 そして気がつけば、少しずつ積もっていたのだ。

 久しぶりの積雪を見れるとは思わなかった。

 やはり俺はガキっぽくわくわくした気持ちでいる。


 部屋の窓からみんながこの屋敷から去っていくのを見届けたばかりだった。

 そのなかには永井さんもいた。

 これでいい。

 十分にこの家で暴れることができる。

 でも、できればここを墓場にはしたくなかった。


 窓から視線を外し、ベッドに体を預ける。

 もう少しで地下室へ行かなければならない。

 場所はもう奴から教えてもらっていた。


 俺は、あのときの会話を思い返す。



「今すぐ、離せ」


 俺がそう言ったとき、彼は意外にもすぐに彼女から手を離してくれた。

 てっきり俺は永井さんを人質にするつもりでいたのではないかと危惧していたので、よけい意外だった。


「……あんたは、何が目的なんだ?」


 また白河家を乗っ取ることか。

 あるいは自分を幽閉した真堂雅之──俺の親父への復讐なのか。

 そのあとに彼が言った答えは、意外どころか嘘としか思えないようなものだった。


「さあね」そして一拍置いて彼は言った。「……ただ。見てみたかっただけなのかもしれない。自分の子供たちの生活を、この目で」

「は?」

「ふん。もちろん復讐だとも。

 私に関わるものすべてに対する、ね。とくに真堂とは長い付き合いだからな。今までこちらを翻弄してくれたぶん、私がこれまでの者たちの想いを預かり、これからの者である君と戦おう」

「やるのか、ここで?」

「いや、もっと相応しい場所があるだろう。うちの屋敷はどうだ」

「……なんのつもりだ。

 あそこには白河さんや咲良ちゃん、なにより永井さんが──」

「君が信頼するところへ預ければいい」

「な──」

「迎え、待っているぞ」

「は、はあ? 迎えって、」


「地下室への入口は書斎にある。本棚で隠れているはずさ」


 そう、彼は書斎にあると言っていた。

 まさかあの場所から地下室に繋がっていた、だなんて思えなかった。


 ……あと少しでいかなくちゃいけない。


 そう、もう俺には時間がない。

 だから、早く行かなくちゃいけない。

 ここで弱音を吐いているわけにもいかない。

 休憩はもう十分だ。だから、だから……。


 ……あと すこし で いかなくちゃ。


「──、ハハ」


 何を怖がっているんだか。

 大丈夫だ。

 俺の身体は丈夫だし、そんな簡単に死ぬわけがない。

 だから大丈夫だ。相性はいい。俺のほうがすぐれてる。


「……よし」


 ベッドから離れる。

 深呼吸を何度かして、異常なまでに高鳴る鼓動を落ち着かせる。

 がんばれ、俺。

 白河家のみんなを、永井さんを助けると決めたなら。


 この足でちゃんと立って、上を見上げて、その先にある光を見据えて、ただそれに向かって走ればいい。


 俺の役目はスプリンターだ。

 短い距離を一気に走りぬく。


 ドアノブに手をかける。

 固唾を吞んで、俺はそれを半回転させた。


「──年下の男の子なんだから、もっと頼ってもいいんじゃない?」


 え?


「そんな、ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔しないで」

「な、なんで⁉」


 逃げろと言ったはずだ。

 白河さんたちとともに俺の実家へ避難しろ、俺はそういうふうに言ったはずだ。

 そう、あのときに──。



 深いグレーの色彩を放つ冬の空から、白い欠片が舞い降りてくる、昼間のとき。


 彼女は花壇でマフラーを首に巻いて、何気なく花壇に咲く花々を見つめていた。 

 そんな彼女のとなりに、俺はそっと近寄った。


「……どうしたの?」


 彼女の口から白い吐息がもれる。


「お願いが、あるんだ」


 ここに来てから、一週間。


 たったの一週間だったけど、それでも楽しいと思えた短い日々。


 そんななかでどれくらいの数、お願いごとをしたのだろうと俺は思った。

 でも、とても数えきれないほどあると思ってしまった。

 本当は指で数えられるほどかもしれない。

 でも、たったそれだけじゃないのではないか、と俺は疑っていた。


「──逃げてくれ」

「え?」なにから? と彼女は言った。

「この屋敷から」

「何が起こるのよ?」


 何かサプライズとかそういうものなのか、と彼女は言った。

 いや、それは苦し紛れの言い訳で、簡単な現実逃避だ。

 気づいているはずだ。

 俺が何をしようとしているのかを、彼女はしっかりと察しているはずなのだ。


「決着をつけなくちゃ、いけない」


 俺は一拍置いて、言った。


「あいつはうちの親父を狙ってる。

 そして、あいつは自分に関わるものすべてに手を出すつもりでいる。だから親父を頼ってほしいんです。あのひとなら、きっと俺なんかよりもあなたたちを守ってくれる」

「……なにそれ」


 小さく、ほんの一瞬で消えた真っ白な息。


「君は、どうなるの?」

「大丈夫ですよ。ちゃんと戻ってきます。大切なひとを置いて、先にいけるわけないじゃないですか」


 苦笑したときの息も、すぐに消え去っていく。

 それがなんだか、これからのことを示唆しているように見えてぞっとする。


「……わかった」



 そう、あのとき──彼女は承諾してくれたはずだ。

 俺が窓から見ているとき、ちゃんと彼女は白河さんたちといっしょに逃げてくれたはずだ。


「大丈夫。ちゃんと君の指示どおりにする」

「ならなおさら、どうして……!」

「決着つけにいくとか言っておきながら、本当は怖くて泣いてるんじゃないかって心配になったの」

「そ、そんなわけ」

「そしたら案の定、本当に怖がってたし」


 ……何も言えない。

 このひとの前だと、本当に俺は弱くなる。

 いや違うな。もとから弱いほうなんだ、俺は。


「……それにさ。私にだってお願い事とかあるんだよ」

「え?」

「私に傷を、つけてほしい。一生消えないような傷」

「き、ず?」

「傷つけて、傷つけて、傷つけて……その最後には、傷を癒してほしい」


 その華奢な身を俺に寄せてくる。

 胸元には彼女の顔がある。顔を俺の胸に押しつけ、離したくないとでも言わんばかりに強く、強く抱きしめられた。その抱擁ぬくもりに、俺は安堵する。


 俺もその小さな身体に手を回して、抱きとめる。

 そのときあり得ないくらい、鼻の奥がつんときて、視界がゆらいで、涙があふれて、男として情けないくらいに、俺は彼女を求めていた。


「んぅ……」


 唇にそっと触れて、お互いの温もりを確かめ合う。簡単な触れ合いから始まり、そこから少しずつ上唇や下唇を軽く噛んだりしていた。


 一度唇を離すと、もう彼女の頬は紅潮していた。俺も、実際のところ体温が上がっている。寝台のほうへ下がりつつ、そこに腰をかけるとお互いに準備を整えた。


 最後に──。

 そのときに幸せの瞬間を噛みしめながら、彼女に一生消えない傷をつけた──。


***


「もしかしたら、この世のどこかに私の子がいるかもしれない」


 そう言いだしたのは、事を終えてから五分程度経ち、俺はもうすべてを知っていると話したあとからだ。


 すべてを知っている、というのは永井さんの出生やソウ爺との関係のことである。


 俺は目を見開き、彼女の顔を見据える。


 いまの言い方とは裏腹に彼女は真剣なまなざしで俺を見つめていた。


「あの男から、たしかにおろせって言われたけどね。

 私、どうしても産みたくて。だから隠れて産むことにしたの」

「え、それじゃあ本当に?」

「うん。産まれたあとは啓二さん、あ、私の義理の父親のことね。で、そのひとに預けたんだけど」

「へえ」


 俺は、あ、と手のひらに拳を打ちつける。


「それじゃあ、迎えに行きましょうよ」

「迎えに行く?」

「ええ。だってこれが終わったらもうソウ爺に縛られることはないんです。

 それなら堂々と子供を育てることができるじゃないですか」


 すると、うーんと少し悩んだふうにうなった。


 まあそんな簡単にいく話ではない、ということは俺も承知でいた。

 彼女が拒否すれば、それまでだとは思う。

 でも、やっぱり親子となれば一緒にいてほしいものだ。


「いきなり母親だって言って、無理を通すのはちょっと……」

「まあ、そうですよね」


 それもそうだ。


「でも……会ってみたい」

「──じゃあ、会いに行きましょう!」

「……ぁ」

「永井さん?」

「うん、迎えに行こうね」


 あ、あと、と彼女はつぶやく。


「なんで、私の本名を知りたがらないの? 永井じゃなくても、神山でもいいのに」

「いや、なんかその呼び方に慣れちゃって」

「まあ、戸籍上は永井だし……それでも、私の下の名前は知らないでしょう?」

「ええ」

「知りたくない?」

「もちろん、知りたいです」

「──ふふ。そう。それじゃあね、私の名前は──」


 それは、雪の降る冬の季節にはぴったりの名前だった。




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