第20話 紅い糸はやがて解け──、

 白河紅子わたしには、好きなひとがいる。

 十年前のときから、ずっと好いていた男の子。

 ばかで、でも意外としっかりしてて、それでいていざとなればわたしを守ってくれるその背中は、小さかったけどちょっとだけかっこよかった。


 いまとなって考えてみると、当時では明らかにわたしより弱い男の子だったはずだ。


 けっこう弱虫なところもあったし、それでも負けず嫌いだったから必死に涙をこらえていたけど。


 そんな、本来は弱いはずの男の子に守られる。

 情けない、なんてことはない。

 とっても、小さくて、大きな背中。

 たったひとり、わたしの憧れになってくれたヒーロー。


 だから、首を絞められたとき。

 すごく苦しくて、抵抗しようにも抵抗すれば嫌われると思って、だから耐えて……。


 きっと彼なりの理由があったのだと思う。

 辛い何かが彼のなかにあって、それ何かが彼にあんなことをさせたのだと理解している。


 ごめんねって謝りたい。

 でも、謝ることのできないジレンマ。


 いざその姿を見ると、あのときのことを思い出して、足がぶるぶると震えて、怖くなる。


 どうしても、一歩も踏み出せなくなる。


 そんなとき、彼は庭園ガーデン沿いの窓の向こうを見ながら、休憩している姿を見た。


 やはり、あのときを思い出す。


 それでも、一歩踏み出さなくちゃとわたしは右足を出した。


 わたしは少しずつ彼に近づいて、こう言った。


「タカユキ」

「え……白河、さん?」


 かなしいような、うれしいような、そんな顔。


「なにを見てるの?」


 わたしは努めていつもの調子で話しかける。

 そして彼が見つめるもの──その正体を、わたしは知った。


 その先では花壇の前で立っている永井の姿がある。

 いつもお世話になっているひとで、わたしはまだ恩を返しきれていない。


 ──そこで、悟ったのだ。


 彼はわたしに気づく前まで、何かいいことでもあったみたいに笑っていた。


 目を細めて、唇をほころばせて。


 それと彼女の姿を照らし合わせ、わたしはそこで理解したのだ。


 物理的な距離でいえば、タカユキと永井は遠い。

 それでも、心は触れ合えるほどに近いのだと、わたしは知った。


「ねえ、タカユキ」

「ん──んっ⁉」


 わたしの顔へ視線を向けたそのとき。

 かかとを上げて、無理やり唇を押しつけた。

 悔しくて、憎くて、どうしようもないこの気持ちの矛先を、彼に向けた。


 唇を離し、わたしは目線を下の赤いカーペットへ向ける。


「なにをしてるんだ、白河さん……!」

「なんで……」

「え?」

「なんで、わたしを選んでくれないの?」


 その問いを告げるとき、顔をあげ、彼の目を見据える。

 わたしはいったいどんな顔をしているのだろう。

 涙を流しているのはわかる。

 頬に涙がつたっているのが感触として伝わっているから。

 でも、わたしはひどい目をしていないだろうか? 

 暗い目で、光を失った瞳で、そんなひどい目で彼を見つめていないだろうか? 

 そんな不安が胸のなかを渦巻く。


「……」


 彼は、無言だった。


「俺は、」

「ごめん、なんでもない。やっぱり忘れて」


 これから言われる言葉に、畏れをなして。


「白河さん」

「やめて、もう言わないで。もう言わなくていいから……!」

「聞いてくれ、白河さん」


 肩をつかまれる。

 その力強さに、思わず言葉を口に出せない。

 嗚咽をもらすだけの、ひどい女になっている。


「俺は……君を選ぶことはできない」

「なんで……どうしてっ……!」


 理由なんてわかってる。

 その答えはあのガーデンにある。

 わかってるけど、わかってるけど……わからないんだよ……。


「俺はこれからひどいことを言うかもしれない。でも、これで諦めてほしい」


 身勝手なひと。

 勝手にどこかへ行ったくせに。


「──俺はさ、他の人を好きになったんだ」

「……永井、でしょ?」

「ああ」


 ……即答、なんだ。


 迷いもない、即答。

 ちょっとでも答えをしぶったら、そこをつついてやろうと思ってたのに。


「……そのうえで、頼みがある」


 ふったくせに、わたしに頼み?

 やめてよ、そんなのただの道具みたいで……そんなのさ。

 ただ、都合のいいように使われてるみたいでいやだよ……。


「みんなを連れて、俺の実家へ逃げろ。

 住所がわからないなら、あとで書いて渡すから」

「え……?」

「……あ、いや。逃げろ、じゃなくて。

 俺の親父がずっとみんなに会いたがっててさ。だから会ってやってほしいんだ、今日」

「きょ、きょう?」

「ああ」

「タカユキは?」

「俺は、ちょっと野暮用で。必ず間に合うようにするから」


 嫌な予感がする。

 だっていまの明らかな嘘だ。

 なにか危険なことに巻き込まれている? 

 それは、いけない。

 傷ついてほしくない。

 傷ついて、もし最悪の場合死んでしまったら、わたしから離れていく。


「そこまで泣かなくても大丈夫だよ」

「──だって」

「本当に大丈夫だって。

 俺は死んでも死にきれないくらい、ここへの借りが多すぎるから」

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