第18話

 私には、どれほど程遠い夢だっただろう。

 あの少年は、いわば私の夢だ。

 私に幸せという夢を見せる、悪魔。


 彼の見せる夢は、あまりにちかい。


 だから手を伸ばして、少しずつ歩み寄っていけばすぐにでも辿り着いてしまうのではないかという錯覚に陥る。


 それを錯覚じゃない、と彼は言ってくる。


 それが気に入らない。

 だから彼と一緒にいることを、拒んだ。


 そのとき、私は久しぶりに涙を流していた。


 もう何年ぶりだろう。

 きっと、あのひとに私のすべてを壊されたときから、ずっと……。


 好きだから、という言葉はまやかしだ。


 あんなの、誰だって言える口実うそ


 たったその瞬間だけ、たったその一瞬だけ重ね合っただけの関係に希望こいを見出すなんて、ばかみたいじゃない。


 彼は小さなころからずっとそうだった。


 私に無防備な笑顔を見せて、私に光を与えて。


 守りたくなる、なんてそれこそ、ほんとばかみたいで。

 でも、それもまんざらでもなくて。

 つい口元がほころんでしまうくらい、

 少し、

 少しだけ好きだったのかもしれない。


 彼が一度あんな目にあったときには、どうしようと思っていた。

 だからこそ、あの子のおかげで生き返ったという話を聞いたときは、ほっと息をもらした。


 それから私たちに関わることなく、外の世界で生きていくことになった少年のあの小さな背中を見て、「しあわせに、生きて」と願った。


 でも、帰ってきてしまった。


 彼は、結局私たちのところへ帰ってきてしまった。


 ……それでも、たくましくなった少年の顔つきを見て、うれしくなったのは事実。


 ……でも、私には……彼の住まう世界へ行ける自信がない。


 それでも、一つだけ望んでいたことがある。

 いつも思っていたことだった。

 もし、この眠りから目覚めて。

 そのとき、そばにいてくれたのが君だったら。

 君の顔が、すぐそこにあったら。

 どれだけいいだろうなーって、歳のわりにはそういうことを考えたりするものなんです。


「──いさん」


 お迎え、なのかな。


「──がいさん」


 なんか、お迎えの声があの子に似てるのは気のせいなのかしら。

 ここまで来ると依存ね、もう。


「永井さん」

「ん、んぅ……もう、さっさと連れてって」

「連れてって、どこに?」


 あれ。

 なにかな、これ。

 あー、わかった。

 最後の望みとして、私の願いが叶ったのか、そうかこれ幻覚なのねー。

 なるほどー。


「永井さん……?」


 というか、なにこの後頭部から伝わる感触。

 なんか、ちょっと硬くて寝心地悪い。


「ねえ、君」

「え、はい?」

「私、いまどういう状況なの?」


 真堂君によく似た少年に尋ねた。

 すると、うん? と首をひねる少年。

 そんな仕草まで似てると悪魔的だと思った。

 下手すれば脳死するかもしれない。


「えっと……」少年は頬を赤く染めて言った。「なんというか、ちょっと寝心地が悪いかもしれませんけど……膝枕? ってやつです」

「あー、膝枕。あのカップルがよくやるやつ」

「なんか永井さん。喋り方に素が出てますね」

「まあ。好きなひとに似てる顔だからかな。だからこそ、罪滅ぼしとして素直になろうと思って」

「……あ、あの」


 急にどうしたのだろうか。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返しては、朱色の頬を指でぽりぽりとかく。

 照れくさそうにしているのだ。ちょっと可愛い。


「それって、どういう意味なんですか……?」

「意味なんてそのままよ。真堂君っていう好きな子がいて、あなた……まあたぶん天使か悪魔のどっちかだと思うけど、あなたがその子の顔によく似てるからよ」

「天使? 悪魔? ま、まあよくわかりませんけど、それは、なんというか」


 いや、だからなんであなたが照れるのか、わからないのだけど。


「まいったな。改めて俺の口から言おうと思ったのに。──それじゃあ、永井さん。これから、よろしくお願いいたします」

「よろしく、って……え?」

「え?」


 ちょっと意味がわからない。

 この鼻がちょっと高くて、目も多少大きくて、輪郭がしゅっとしていて……完璧な顔というわけではないけど、はにかんだ顔がよく似合うこの好青年は……真堂君ではないはず、よね?


「これって、現実……なの?」

「は、はい。紛れもない現実、ですけど?」

「それじゃあ君は、真堂君?」

「ええ。紛れもない真堂隆之ですけど?」

「それじゃあ、いまの告白は?」

「……永井さんから言ってくれた、紛れもない、どころか夢であってほしくないくらい、大事な告白です」

「……」


 絶句。

 やだ、何この笑顔。

 守りたい。


「ねえ」

「は、はい。なんでしょう?」

「ちょっと、耳かして」

「は、はい? わかりました」


 そう言って、少しずつ顔を近づけてくる。

 私はこれから少年を驚かしてやろうと企んでいる。

 私だけ恥をかくなんて、そんなのは横暴。

 なら、この子にだって大恥をかかせてやる。


 ちゅ。


 そのほっぺに、してやった。


「あ、あ、えと」



 いい感じに戸惑ってる。顔がタコみたい。

 そしていまの私はなんも動揺してない。

 これが大人の余裕というものです。


「……お互い、顔真っ赤ですね……」


 はは、と彼は苦笑する。


「うそ。私、そんな……?」

「ええ。タコみたいです」


 ……これはどうやら、私の完敗みたい。


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