第17話
──とんとん。
足音が、聞こえる。
おそらく、あの女が来たのだろう。
また食事を持ってこちらへやってくる。
昨日のことを思い浮かべてみる。
夜、彼女は泣いていた。
泣きながら自分に操られていた。
その様を見て、自分も悲しくなった。鼻の奥がつんとくる感覚。奥からこみあげてきた感情が一滴の涙となって頬の筋を作る。
自分では、だめなのか。
ああ──なんて、身勝手。
この期に及んで、自分は彼女を愛してしまっていたようだ。
だから、一度、彼女をさらってみたくなった。
どこか遠くへ連れていきたい、とふとそう思ってしまった。
檻の前にやってきた彼女。
その彼女が檻の扉を開けてきたと同時に──彼女を気絶させた。それを抱いて階段を上っていく。
そう、連れていってしまおう──。
***
「永井さんっ」
声のトーンが上がり、半分金切り声のようなものになってしまった。
自然と「だめだ」と思い、沈ませていた上体をぱっと起き上がらせるほど、俺は何かを恐れていたらしい。
その何かとはなんだ、と俺は思い返す。
永井さんに関わること、だというのはわかっている。
でも、いまは考えているひまなんてないと思い、ようやく踏ん切りのついた俺は部屋を飛び出す。
だだだ、と大きな足音が廊下に響きゆく。
それでも関係ない。
いま、俺は衝動に任せて走っていた。
寝間着のまま俺は屋敷を飛びだし、長い道のりを経て、門へ。門は飛び越す。
俺はそのまま、走る。走る。走る。
途中で思い出した。いまこうして走っている理由。途方もないものではなく、目的あるものだという証明。
俺の好きなひとがさらわれた、だから取り戻す。
ただそれだけだ。俺の目的はシンプルなものでいい。複雑な生き方なんて選ぶほど、頭はよくできちゃいない。
走れ。走れ。走れ。
街のなかを走りぬく。人は少ない。現在深夜の十二時半。
なぜだか分かる事があった。
それは、永井さんをさらっていった奴の位置。
あいつはビル街の路地裏に潜んでいる。
俺はその路地へ向かっているのだ。
これはとくに根拠があるわけじゃないけど、だからといって理論で説明できるものではない。
感覚、だ。感覚で位置がわかってしまった。
路地へたどり着く。
暗く、じめじめとした雰囲気。
あぁ、まさにあいつ好みだ。
地下室とひどく似ている、湿った孤独感。
冬の風が誘惑してくる。さあ、路地へ行けと言っている。
「そんなの、言われなくたってわかっている」
強気になってみるが、やはり足は恐怖で震えていた。
指先は硬直し、歯からがちがちと音が聞こえる。
おそるおそる右足を境界線に触れ、俺は一気に踏み出す。
そこから先は異界であると言わんばかりに、俺は誰かに押されたような感覚を覚えて、そこへ踏み出す。
乱れた呼吸を整える暇などなかった。
俺はその境界線をまたいだ瞬間、先ほどと同じように真っ直ぐ走りだした。
ゴミ箱が倒れて中から食べかけの弁当や飲みかけのドリンクなど、ごみが散っている。
途中で一時間前のもののようにまだ新しい吐しゃ物が道の真ん中にあった。
一瞬転びかける。
薄汚れた小道をずっと走っていくと、少し広がりのある空間へ着いた。
「……なあ」
俺はその空間のなか、真ん中である人を抱えて鎮座しているそいつへ声をかける。
「何がしたいんだよ。教えてくれよ、なあ」
ある種、命乞いと似たようなリズムだと俺は思った。
「頼む。教えてくれよ、」
この名だけは口にしたくない。
口にしたくなかったが……いたし方ないだろう。
もう犯人はこのひとしかありえない。
あの地下室にいた怪物とやらも、あの玄桐とかいう男も、この人しかありえない。
「なあ──ソウ爺」
白河宗助もとい、玄桐宗助。
そしてきっと、永井さんが愛したというひと。
「久しぶり、だな。隆之」
パーティー会場で俺と会ったときのように、優しそうに微笑む。
そのうえ、同じ台詞を吐くものだから本当にこのひとなのか? と疑いたくなる。
──大丈夫だ、そうしたくなるというだけ。
俺のなかではもう、このひとで確定してる。
「なにが久しぶり、だよ。あんたはもう、ずっと前に死んでいたはずだろうが」
わからないことだけが、一つある。
なぜ彼がこの表舞台から去っていったのか、それがわからなかった。
俺は実際に死体を見たことがないため、本当に死んでいるかどうかもわからなかったわけだが。
「……ああ、そうだね。私はずっと前に亡くなっていた。そういう筋書きだった」
「筋書き?」
「隆之君。きみはこれが欲しいんだろ?」
それは小さな長方形の本のようなものだった。
そう、それは俺が探していたはずの日記帳だった。
「心配しなくとも、私がすべてを話すさ。夜は長い。あのことを語るだけの時間はあるだろう」
「……」
「まず、隆之君。君はこれをどこまで読んだ?」
俺は日記帳をまじまじと見つめ、読んだときのことを思い返す。
「六月二十一日の妊娠が発覚したところから」
「ああ、あのときかい」
「その前に、一ついいかな」
「……なんだい?」
俺は一拍置いて、口を開いた。
「……その、ソウ爺の相手っていうのはさ」
首を絞めあげたくなるほどの苦痛。
喉に何か詰まればいい、と一瞬物騒なことが頭をよぎる。
「永井さん、なのか?」
「……ああ」
「そう、なんだね」
「なるほど。見るに隆之君、きみは永井を好いているようだ」
「…………ああ」
俺は答えた。
「それなら、永井の素性のほうが知りたいだろう。おそらくこの子は、あまり人には話さないだろうしね」
俺は、ゆっくりと頷いた。
叶ったり願ったり、というやつだった。
思い返せば、永井さんのことはあまり知らなかった。
──なんだ、あれだけ好きとか言っておきながら。
俺は結局、あのひとのこと何も知らなかったんだな。
「まず言っておくがね。永井、というのは偽名だ」
「え?」
「もともとの姓は──カミヤマ、だ」
カミヤマ?
「神様の神に、山田の山で、神山と書く」
「とても興味深い一族であったよ。面倒だったから、骨すらも残らないようにしたが」
「……つまり、あんたは」
なんて、罪深いひとなんだよ……あんたは。
「そのひとの家族を、殺したっていうのか」
「そうだ」
「てめえ……っ」
こうして彼を敵視することは、本当は抵抗があった。
俺のなかに彼に対する強い信頼があったからだ。
だが、それにだっておそらくからくりはあるのだ。
俺が一度死んだとき、白河さんが血を分け、俺の心臓をその血で構築した。
白河さんが持つその血が、玄桐宗助のものでもあるということを考えると──つまり、白河さんを経由して、俺は……あのひとを〝親〟だと認識しているのだ。
だがあくまでそれは実質的な〝親〟であり、本来〝親〟であり、逆らうことのできない相手というのは白河さんなのだ。
「だが、あいにくと生き残りがいてね。
二人の子供だったんだが、一人は植物人間と似た状態になったのだが、もう一人はぴんぴんしていてね。その子が、のちの永井だったわけさ」
「それで、あんたが引き取ったのか」
「いや、表面上として私の知人にあずからせた。
その知人が永井というのでね、戸籍上は永井家の長女ということになっている」
俺は先ほどから、歯を食いしばるあまり奥歯のほうがガリッと音を立てて、歯が砕けた。
「それで?」
「永井の元の家──神山一族は退魔に関わるものだった。
数ある一族のなかでも、なかなか面白いものを持っていてね。性別によって持つ能力が違うんだ」
ソウ爺は楽しそうに笑いながら、続きを話した。
「男性は異端の存在を、五感を用いて認識できるというものでね。
女性は吸血種に血を吸われると、吸血種は死ぬんだ。なぜかわかるかい? それが毒だからだ」
「毒?」
「まあ、いまとなっては吸血衝動を抑制するのみになってしまったがね。
そしてもう一つ、これは人間にも怪物にも作用される能力なんだがね。
対象と性交渉を行うことで、対象の血液の情報・記録・記憶を覚醒させるんだ。それに付随して、生命力を増幅させることができるようになったのさ」
それは、つまり……あの夢。永井さんが話したがらなかったあれは、そういうことだったらしい。
「つまりは、元祖帰りを助長させるということだね」
冷たい風が耳をかすめて通っていく。
「そして、あの日。永井と私が交わったあのとき、私は見事にやってしまってね。仮にも玄桐は東洋の〝鬼の祖〟と呼ばれるだけあって、その歴史は深いものだ」
「……」
「私は一時暴走してしまってね……愛する妻の首筋に牙を突き立て、あとは想像どおりさ」
俺は顔をうつむかせる。
「後日、永井の妊娠が報告された。私は焦ってしまってね。だから私は、おろすように言っておいたのさ」
「……それで、本当に」
「実際は知らないとも。その報告を受けるまえに、私は地下室に幽閉されることになったんだからね」
それは、どういうこと、だ?
「真堂雅之が関係してくるのさ。
もともと真堂家とは繋がりがあった。それが、〝防りの結束〟という繋がりさ。我々が暴走したら、これを鎮圧または処分する。それで我々が真堂家にバックアップをする、という契約」
「君も来ていただろう。
パーティーのときの、あの事件。君が一度殺されたという、大事件さ。あれのあと、私が妻に手をかけていたことがバレてしまったのさ。
薄々、気づいていたようだけど。まあ、さすが退魔の祖というわけだ」
そう、俺はあのとき殺された。
あの正体不明の化け物に。
その正体をこのひとは軽々しく打ち明けたのだ。
あの化け物が、俺を殺した犯人が──白河涼子であったことを。
おまけに、あの『たすけて』という言葉を放ち、俺の心に傷を残したのも、彼女であったことを。
「だから私は死ぬことになった。
その余興としてね、私は死体を作ることになった。ほら、いつの日か言ったことがあったはずだ。人形作りが趣味、だとね」
「それで、作ったのか……?」
「ああ。私にそっくりで、肌の質や温度も本物の死体と合わせた。
それをベッドに忍ばせ、私が死んだかのように見せたわけさ。
誰がその死体を見に来たかは知らないが、おそらく私の子供たちの誰かが私の死を報告したのだろう。そのあとは衰弱死と表沙汰ではそうなっている」
「それで、あんたはあの地下室に……?」
ああ、と大きくうなずくソウ爺。
「私の世話役は永井が務めることになってね。つまりは永井は私の道具というわけだ」
──いや、そこだけは嘘だ。
それだけは違う。それは真意じゃない。
真実じゃない。ソウ爺はたしかに、永井さんを──。
「……お見通し、か。
ああ、そうだよ。君の言うとおり、私は愛してしまったわけだ。まったく同調なんてクソ喰らえだ」
「同調?」
「わからないのか?
君、いつも私の身体のなかに入ってきて食事を見てきただろう。それは君にも血が流れているから生じるものなんだがね」
あの夢のこと、か。
永井さんによってより血の影響が濃くなったからか、そういう現象に陥ったのだろう。
〝親〟との同調。
俺のなかに流れる血──つまりは白河紅子の血の元祖である、彼との、同調。
「待て。じゃあ、彼女らは勘違いしているということなのか? 親の正体を」
「ああ。私が事前に教えておいたからね。白河一族は特別なものだと」
「……」
「……で、君はどうする気だい」
「どうする……って?」
結局のところ、このひとは俺の知っているソウ爺ではない。
ただの玄桐宗助、という化け物に他ならない。
化け物?
なら殺さなくちゃならないな。
だってそれが俺の
なら、答えは出ている。
「わかっていることだろう、吸血鬼」
「うん?」
「お互いこうやって話し合う暇もない。
そもそも、そういう生き方は求めてないだろ、アンタ」
「……誰かと思えば、とんでもない失礼だったな。
君は、私がよく知っている百年以来の相手だ」
「……俺は気が早い。
おまけに短気だし、その気になっちまえばすぐにでも襲う。つまりは欲望に忠実でさ」
「ほう……?」
「だから、そのひとから手を離せ。じゃないと、その腕、今すぐにでも断つ」
空気が震える。
血流が乱れる。
一点に集中し、彼を敵視する。
「今すぐ、離せ」
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