第13話
ゆっくりと、やわらかな寝台へ体重を預ける。
空虚な存在になろうと努めて思考を止める。
何も考えたくない、という思考だけを残して。
視界いっぱいに広がる真っ白な天井。
その真ん中に灯りがある。
まばゆい光を遮るように目蓋をゆっくりと閉じた。
「ぁ──」
深いため息が出るところだった。
母からため息をすると不幸が逃げるとよく言われた。
それを真に受けて、そのあと何年かため息をつかずによく我慢したものだった。
だが、いままでのことを考えると、不幸なんて、もう訪れているようなものなのだ。
だから、ここで我慢したところであまり関係ない。
不幸はすぐそこに。転がりゆく道のなかで。
「──おれ、は」
黒岩を殺し、永井さんに手を出して、白河さんを苦しめた。
ここにいるのが、怖い。
もう家へ帰りたい。
ここにいればきっと、また誰かを不幸にする。
他でもない、この俺が。
いけない。
もう考えるのをやめようと思ったときに、これはいけない。
だが、父が言ってくれた言葉があった。
〝いいか、隆之。人が考えるのをやめたら、人間は人間でなくなる。
銅像か何かになってしまう。だからどんなに不幸があって、辛くて、悩んで、自分が嫌になっても。
それでも、せめて真下じゃなくて前斜め下を向いて、少しずつ歩いて、少しずつ顔を上げていけばいい。それでももし、立ち止まりたくなったら。
後ろを振り向くんだ。そこにはきっと、かけがえのない仲間たちがいる。笑って、叱って、いっしょにいてくれる仲間たちがいる。
若いころの、父さんみたいにな。〟
父は、一見ふざけているように見えてすごいひとだ。
いったいどんなことをすれば、あんなひとになれるのか、俺は密かに憧れてもいた。
幼少のころは父がどんなことをしているのか、一日中観察したときがある。
一日中、あのひとはずっと鍛錬をしていた。
あとは道場で習っている子たちに稽古したり、疲れたときには家で本を読んだりしていた。
でも、それは夜のときだった。
父の部屋。
もう父は寝てしまっただろうかと観察をやめようとしたとき。
あのひとは泣いていた。
苦しそうに、ただただ涙を流していた。何かを口に出しながら、ずっと、ずっと……。
父の弱い部分を、俺はそのとき初めて知った。
「どうして、ないてるの?」
心配になって、部屋に入った俺。
そこで父の小さな背中に向けて、声をかけた。
すると父はゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔は、ひどく、あまりに悲しそうな目で、笑っていた。
「なんでもないさ」
ほんとうになんでもないかのように、父は俺に「子供は寝る時間だ、早く寝なさい」と言った。
あのとき父は何を泣いていたのだろうと、ときおり俺は考えていた。
扉をノックする音。
たぶん、今度こそ永井さんのはずだ。
いますぐに顔を隠したい気分だったが、それも間に合わず、扉は開かれた。
すると、そこにはまた違う人物が立っていた。
不機嫌そうに眉間を寄せて、目を細め俺を睨む誰か。
「きみ、アルバイトだってこと忘れていないか?」
「あ、ええと。執事さん」
「まあいい。とにかく早く来たほうがいい。本命に怒られる前にね」
「そう、ですね」
俺は適当に頷いた。
「真堂くん」
「え、はい?」
「何も、思い出していないのかい」
首を傾げる。
「だから……咲良のこと、だ」
咲良? 呼び捨て……っていいのか?
「咲良ちゃんのこと? なんでです?」
「……思い出したら、すぐに僕へ言ってくれないか。そのうえで頼みがあるんだ」
「は、はあ」
よくわからないな、と思いながら俺は部屋を出た。
***
俺は永井さんから少し怒られて、指示を受けた。
その指示とは二階西棟の奥にある図書室の清掃だった。
本棚の整理整頓もするようにと言われ、少し嫌な予感を抱いたときにはもう遅かったと思う。
いざ扉を開けて入ると、そこには本、本、本。
一面、本の海といっても過言ではないくらいの膨大な蔵書数であった。
この数をぜんぶ整理しろ、というわけではないことを祈ろう。
永井さんから指示を受けるとき、当然あのひとは普通の対応をしていた。
遅れてきた俺を叱り、そのあとで「やれやれ」といったふうに呆れながら、俺に図書室の清掃を(東棟にあるソウ爺の部屋から遠ざけるようにして)指示した。
まず床の清掃を。
ほうきを使ってほこりなどを一点に集めて、ちりとりで取る。
この作業だけでも四十分はかかった。
それから雑巾がけ。
この作業に関しては案の定、一時間近くはかかった。
それからこの空間を囲むように設置されてある本棚を整理。
高いところは脚立などを使って、本を整理した。
脚立を使って高いところを整理しているとき。
ある一冊の古い書物が落ちてしまった。
「やっべ」
と、つぶやいて、すぐに脚立から降りた。
床に落ちたそれを手にとって、表紙を見る。
どうやら一般に印刷された本ではないみたいだ。
どちらかというと、ソウ爺の部屋で見たあの日記帳のようだった。
それに、あの日記帳よりも薄い。
簡単に折り曲げられるくらい、その書物の幅は小さかった。
「白河家……そのまんまだな」
どうやらこの家にまつわる話が書かれている。
著者は不明。
だがおそらく白河家の誰かだとは思う。
少し気になって、俺はまず見開き一ページに目を通した。
そこには達筆な日本語でこう書かれていた。
『ここに白河の事を記す。そのうえで関わってくるのは、
俺はそのことが気になって、思わず次のページを開いた。
『白河の事。
我々は鬼の一族。この身を異端の血で汚してしまった、人間にとっての悪であり、わたしはちは罪人だ。
ならば、鬼に魅入られ、この身体を許したわたしはきっと……大罪人だろう。意識がなかった、命令されていた、そう言えばたしかにわたしは何の罪も問われないのかもしれない。
だが、わたしは子供たちを恐れた。他の誰でもない、わたし自身が苦しい思いをして生んだあの子たちを、わたしは恐れ、憎んだ。
わたしの血が流れている、愛すべき子供らを責めた。そのうちの咲良という子を、わたしは陥れた。
そのときのわたしは、子供たちという化け物を恐れるあまり、一回でもその節が見られた場合、わたしなりの対処をしようとしたことが要因だ。
……わたしは、人間という立場をとっておきながら、わたしの心も怪物の血で染まっているのかもしれない。』
咲良という名前が出ているのを目にして、思わず目を張った。おそらくこれはまだ新しいほうで、著者はソウ爺の奥さんである〝白河涼子〟本人だろう。
『玄桐の事。
彼は突然現れた。
当時、わたしには想い人がいて、親の言うとおりに見合い相手と婚姻をさせられることにひどく抵抗があった。
そんなわたしに、彼が現れた。眉目秀麗、質実剛健、男性としてとても魅力的な人物であったことをわたしは覚えている。
だが、わたしは見合いを断った。
わたしには、想う人がいる。
あのひとはいまも、わたしを愛してくれている。
そのことを強く胸のなかで訴えながら、わたしは眼前の小奇麗に装った男性に遠慮していただくよう、話をした。
すると、思ったよりも彼はすぐに引き下がった。
わたしは安堵の息をもらしたが、それもつかの間のこと。
わたしが瞬きしたときにはもう、周りは血に染まっていた。
見合いは白河邸の食堂で食事をしながら行っていた。
わたしの両隣には父と母がいる。
さらにその周囲には多くの使用人がいた。だが、それらがただの血肉へと変わり果てたのだ。それからのことは、よく覚えていない。』
どういう、ことだ?
それはつまり、白河は……もともと人間であったというのか。その玄桐というひとが、じつのところ化け物で……いや、待てよ。まだ最後に何か書かれてある。
『た す け て』
──。
「読書は感心しますけど、お仕事中のときにはやめましょうね、真堂君」
「へ?」
「へ、じゃない。まあいいわ。真堂君、買い物付き合って」
「え、あ、はい」
俺は急いで本を棚へしまい、清掃道具をもって図書室をあとにした。
そのあと永井さんはロビーで待つから、と俺が清掃道具を返しに行くのを待ってくれた。
その途中、さっきの日記帳のことを思い出す。
あれがもし、事実ならば。
俺が当たり前と考えていたことが、すべて逆転してしまう。
つまりは、白河家は〝あのひと〟に呪われているようなもの、なのだ。
だが、やはり俺はそれを否定したがっていた。
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