第12話

「なんだよ、いまの……」


 俺が、やったのか? 

 いや違う。あれは俺なんかじゃない。


 朝になり、俺は目覚めた。いつもどおりの時刻である六時半。窓から差し込むまばゆい光が、外の天気を暗示している。俺は多少の吐き気を覚える。額をおさえて、歯を食いしばる。奥歯がぎりっと音を立てた。


「俺、じゃない……なら」


 夢であってほしい。これがただのまやかしならば俺はただ彼女に対して気まずくなるだけで済む。


 それだけならいい。


 でも、もし本当だとしたら。


 あの夢が実際にあった出来事だというのなら──俺は、いますぐにも引き裂きたくなる。〝彼女〟に手を出した獣を、この手で……。


「いや、違うだろ」


 そもそも、彼女は俺のものなんかじゃない。


 それにすでに俺には相手がいるようなもの。

 白河さんには特別ほかの人に想いを抱いてるわけじゃない。

 むしろ俺との婚姻を肯定している節がある。


 彼女は、俺の命の恩人。


 それもこの血に流れるもの──つまりは『記憶』の部類に入るものだ。


 俺は一度、この命を終えたことがある。

 だがこの命をつなぎとめているのは、紛れもない白河紅子本人だ。

 ならば俺はおとなしく親父たちが決めたこの約束事に従うべきだ。


 俺だって異論はない。


 異論は……ない、はずだ。


 ちく、たく、ちく、たく。


 壁に飾られた時計の秒針の音。一刻一刻と時が進んでいくたび鳴る、心地のよいおと


 だが、いまの俺はなぜだか(わかっている)気分が悪い。それこそ吐きたくなるぐらい、またあの人をこの手でころしたくなるぐらい。


 いまのオレは、狂っている。


「とりあえず、起きよう」


 俺は永井さんが起こしにくる前に燕尾服に着替え、仕事の準備を整える。


 本当はあのひとに会うこと自体、抵抗があった。あれが夢だったとしても、俺ではない誰かが彼女に触れるなんて──だから、俺は何を言っているんだ。


 夢だとしても、夢でなかったとしても、俺には関係のない話だ。あのひとがどうしようが、本来俺が気にするべきことでもない。


 心に留めておく価値もない。


 それを理解しているなら、なんでこうも胸が疼いてんだよ。

 いらないんだ、そういうの。

 本当に必要性のない、名前もいらない、余計で邪魔くさくてただ青臭いだけのちっぽけな気持ちなんて。


 こんこん、と扉をノックする音が耳に届いた。

 俺はすぐに扉のほうへ向き直り、「いいですよ」と呼びかけた。やはり永井さんと顔を合わせるのはどうも気が引ける。


 この伽藍洞のような心に、何を埋めればいいのだろう。


 俺はいったい、何を望んでいるんだ。


「タカユキ?」


 白河、さん?


***


 扉のすき間から顔を覗かせてくる少女。赤い着物を身にまとった、綺麗な少女。学校に行くまえらしい。


「えっと。どうしたの、白河さん?」

「うーん、最近どう?」


 なんと適当な……。


「どう、と言われても」

「えっと、その執事服似合ってると思うよ」

「はあ、それはどうも……」

「……」

「……」


 ここで沈黙になるのはやめてほしい。


「下手な前置きはいいよ。要件だけ言ってくれればいいから」


 そう言うと「む」と眉根にしわを寄せる白河さん。

 わずかな間、下唇をわずかに噛んで口をつぐんだ。

 躊躇してしまうような話なのだろうか、と少し不安になる。


 白河さんは深呼吸をしたあと、俺と視線を合わせる。

 その瞳はなんの曇りのない、純粋で奥深いものだった。


「まだ、ちゃんと話したことなかったよね」

「え。あ、ああ」


 言われてみればたしかにそうだ。

 俺のほうは事件による連休で、彼女は学校のために話す機会があまりなかった。

 一回だけ、彼女が学校の創立記念日で休日だったときがあったが、そのときも話していなかった。


 俺は自然と、〝親〟である彼女を避けていたのだ。


 親愛と似た感情を持っていることに、ふと違和感を覚え、だんだんと嫌悪感へと形を変えていったのだ。


 だがそれは自分の意思によるものじゃない。


 ──自分の血がそう言っている、と宣言したところで比喩か何かだと思うだろう。だが違う。それは比喩ではない。


 まさにいま、オレが叫んでいる。殺せ、と。


「顔色悪いけど、大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫だよ」


 大丈夫なんかじゃない。

 そんなに顔を近づけないでほしい。その細い首を絞めつけて、殺したくなる。


「なあ」

「なに?」

「本当にさ、なんでなんだ。

 あんなの親が勝手に決めたことだっていうのに、それに無理やり従う必要ないだろ?」

「え?」


 こちらの言っていることがわからなかった、とでもいうような顔をしていた。

 きょとんした顔で、目をぱちぱちと瞬きさせている。


 俺がしまったと思い、「なんでもない」と言おうとして口を開いた瞬間──彼女の言葉に遮られてしまった。


「ばか」

「へ?」

「……勘違いしなさいよ」

「勘違い? 何を言ってんだ?」


 何をどう勘違いすればいいのか、俺にはまったくわからなかった。そもそも話の文脈どおりなのか、これ?


「わかった」


 白河さんはそう言って、身体と身体の距離を縮ませる。


 何をしているのか、と俺が言おうとて彼女の顔を見た。

 すると、頬を朱色に染めて、ゆらめく瞳でこちらを見据えていた。

 まるで覚悟を決めたような顔つき。だけど幾ばくかの迷いが生じているようにも見える。


「こうして、あなたの手に手のひらを重ねて」


 彼女は柔軟で、甘い声色でつぶやく。


「こうして、あなたとの距離を詰めて」


 彼女はむう、と眉をひそめている。怒っているのだろうか。


「これで、勘違いしないわけがないと思うけど?」


 白河さんは、あまりに遠回りな、それこそまさに急がば回れと体現したかのような行動に出た。


「あ……ァ」


 ああ、勘違いしないわけがない。

 でも、それはいけない、白河さん。

 俺は君という〝獲物〟を見つけてしまった。君は、この腹を裂いてとばかりに腹を丸出しにしている人間と変わらない。


 つまり、白河さんはこう言いたいわけだ。


「オレに、■《ころ》されてもいいわけだ」


 その後の行動は早かった。両肩を手で強くつかんで、「いた……!」と切ない声で喘ぐ者を押し倒す。


〝あ……〟


 気づいたのだろうか。

 いや気づくわけがない。

 だってオレと彼女では、渦巻いている欲望の形がまるで違うのだから。

 とんでもないすれ違い。

 オレたちだからこその間違い。

 その間違いを正すことを、きっといまのオレは許さないだろう。

 ■■《オレ》を呼び起こしたということは、つまりは『そういう事』なのだろう? 

 いいさ、こっちは勝手にやらせてもらう。

 こちらの本来の目的いきかたは、いま眼前にいるこの少女のような異端を討つことに他ならない。

 よかった、それだけは間違いじゃない。この部分さえも間違っているのは、この少女だけだ。


 ──なんて、哀れ。


「あの……タカユキ?」


 ゆっくりと首に指先を触れさせる。


 爪の先端が大動脈部分に触れたとき、彼女の身体はびくんと跳ねた。


 こんなにも身体が火照っているにも拘わらず、背筋が凍えそうなぐらいに冷えるのだ。


 裸体で冬の風を受けているかのような感覚。

 感覚という感覚が仕事を放棄し、この身体を縛りつけていたチェーンを取り外したのだ。


 華奢で、すぐに折れてしまいそうな首を両手で覆う。

 視界が揺らぐ。

 脳が浮かされたような気分だ。


 そして、ゆっくりと、その手に、力を入れた。


 最初は戸惑い。目を大きく見開き、小さく口を開き、「ぇ?」と声にもならないほどの声でつぶやいた。


 滑稽だ。笑える。傑作だ。本当に、嗤える。もっと力を入れると、さらに苦しみ出して、苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんで……! 助けをこう声が、聞こえた。


〝やめ……て〟


 聞きたくない言葉。

 聞きたかったおと


 青ざめていく彼女の頬に何かが落ちる。

 液体のようなもの。

 これは、なんだ。これは……? 涙……? 

 無視してしまおう。

 このまま苦しめて、もっと苦しめて、やがて首の骨を折ってやる。

 心臓を壊さない限り、彼女は死ぬことはないし、オレが絶命することもない。サポートは続行中、というわけだ。


〝お、ね……がい〟


 お願いされたところで止まるわけがない。


 憎くて恨めしくてたまらないのに、

 気持ちよくて楽しい気分でたまらないのに、

 これをやめようなんてもったいない。


 最初こそ激しく身体を動かして抵抗していた。


 息が苦しくなると、両足をバタバタとさせていた。


 そのせいでせっかく整えられていたシーツや毛布がぐしゃぐしゃに乱れてしまった。なんてことだろう。


 そんな子にはお仕置きだ。


 そう、これはお仕置きなのだ。

 だからこれは決して悪いことではない。

 そもそも人殺しでもない。

 まっとうなことをしているだけだ。

 この行為にどういった間違いがある? 

 この行為にどれだけの正当性が含まれている?


「……たす、けて」


 すぐに力は弱まった。


 手のひらが少し痺れているのが、数秒遅れてわかった。

 俺はすぐに少女から離れた。

 けほけほと今にでも吐きかねないほど、咳を重ねる。


「しら、かわさん」


 心中で驚く。

 俺の声はこんなにも細かったのか、と。


「俺……ごめん」


 ごめんで済む話じゃない。


「……わからないんだ」


 わからないで逃れられない。


「わからないけど……俺、君を……」


 彼女の指先が、小刻みに震えている。


 俺が手を伸ばそうとすると、肩をびくりとさせ、身体を退かせた。

 ああ、わかっている。当然のことだ……。

 むしろ俺が彼女にしたことに比べれば、なんてことない。


「こ、これは違」少しの間。「ちがう、の」顔をうつむかせる白河さん。

「ごめん、白河さん」


 謝るという選択肢しか、いまの俺にはなかった。


「……わたしのほうこそ、ごめん」


 何も、悪くないのに。

 何も、していないのに。

 彼女は、それでも謝った。

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