第10話

 風呂から上がったあと、俺は永井さんから「今日はもういいわ。ありがとうね」と言われた。


 俺はべつにまだ何か手伝うこともできたのだが、それを言うと「ううん、もういいの。今日はゆっくり休んで」と頑なに彼女は俺を休ませようとした。


 そこで俺は一抹の不安を抱いた。


 もしかして、あのことで俺のことを嫌うようになったのではないか。いや、そうとは限らないかもしれない。……いや、やっぱりそうなのだろうか。


 そんなことを考えながら、俺は自分の部屋へ帰っていった。

 もうすでにベッドメイクが済ませられていたのか、綺麗にシーツや毛布が整えられていた。ここまで綺麗だと、そこへ飛び込むのに勇気がいるようだろう。


 俺は結局、椅子に腰をかけることにした。


 夜になっている。当たり前だが、窓の向こうに広がっている空は黒く、白い光が点々とある。


 白河邸は丘に続く坂道を越えたところにある。それもあって、窓から見ると街の灯りがよく見えるのだ。


 そういえば、と昨日の時点で途切れていた記憶のことを思い返す。


 退魔……情報として存在する単語だった。魔を退ける、というまさにそのままの意味だ。それとつながるように出てきた単語──部類としては記録だ。


「退魔の、祖」


 退魔という概念、それを担う者たちの祖なるもの。真堂という一族は、退魔に長けた一族であるということらしかった。


「っ──⁉」


 床に倒れる。頭を抱える。神経に千切れる。脳漿が沸騰する。だらりと汗が滲む。


 まずかった。いや、いままさに脳がまずいと俺に警告している。何が起きたのか、一瞬わからなかった。


 この痛みは、何が原因で発生しているというのか。


 まったく見当がつかない。痛みの以前、俺は何をしていた。

 いや、とくにこれといったことはしていない。ただ考え事をしていただけ。退魔の祖について、思い出していただけ。ただそれだけだ。


 持病というわけじゃない。体が弱いというわけでもない。これは、原因不明のものだ。


「……と、とりあえず……おさまったか……?」


 あまりの痛みに思考すらできない状態であったが、今はもう大丈夫であった。

 もうおさまりきっていたときに、扉の向こうからどたどたと走る音が聞こえる。

 白河さん、だろうか。


「真堂君⁉」

「え?」


 あり得ない。


 ただ、なんとなく。なんの確証もないまま、そう思った。


 まったく予想外の人物が現れた。


 そして俺が一番に来てほしいと思っていた顔が、そこにある。

 そんなこと、あり得ないと思った。


 あり得ない、というわけじゃないけど。

 可能性として十分にあったほうかもしれないけど。


 それでも、今日の流れから見て彼女が来ないこともあり得たと思ったから。


 だから、俺は。

 こんなにも、心臓がきゅっと締めつけられるような感覚によろめいている。


「ど、どうしたのですか?」

「え、い、いや」


 やばい。返答を考えていなかった。


「いや、なんでもないですよ。俺はべつに」

「じゃあ、なぜ床に倒れているのですか」

「え、いやそれは」

「何かあったからでしょう」

「あ……う」


 まあ、こうして床に見事に倒れているところを見られて、何も思わないひとはいないよな。そりゃあさ。


 でも、このひとにだけは心配されたくはなかったのに。


 なのに、なんでなんだろうな。


「永井さん……」


 情けないのはわかっている。男のくせに、とは思う。

 けどさ、


「心配して、きてくれたんですか」


 やっぱ、期待しちまうだろ。

 俺のことを心配しに来てくれたんじゃないかって。俺のこと、本当は嫌ってないんじゃないかってこと、確認したくなるんだよ。


「当たり前、じゃないですか」


 やめろよ、そういう顔。

 そういう顔で当たり前だ、とか言わないでくれよ。


「どうして……俺のこと、嫌っていたんじゃないですか」


 俺はその場で立ち上がる。

 顔は下を向いたまま。


「嫌う? いったいなにを」

「不安になったんですよ……?」


 なに言ってんだろ、俺。


「あんなふうに突き放されて、もう嫌われたんじゃないかって思って……それで」

「真堂君?」

「俺、俺……」


 こんなに、俺は弱いやつだっただろうか。せっかくこの人は心配してやってきてくれたのに、またこうして迷惑をかけてしまっている。


「──え──?」


 たしかな温もりが、そこにあった。頭の上に何かが置かれて、髪を愛でるように撫でられている。


 俺は、抱き寄せられていた。


 俺の顔を胸に置き、背中に手をまわして、頭を撫でてくれている。この感覚を、俺はなつかしいと感じた。冬が明けるころ、俺はあの庭で、ちょうどこの温もりに満たされていた。


 遠い記憶。

 近い温度。


「何を、しているんですか」


 俺はようやく正気に戻り、彼女に問う。


「何をしていると思います?」

「……抱きしめてる」

「はい、そういうことです」

「そういうこと、って言われても……」


 俺がそうつぶやくと、ふふと笑ってから彼女は言った。


「泣きそうな顔、してたから」

「え?」

「変わってないね……十年前とまったく」

「だから、どういう」

「同じ顔だった……さっきの真堂君の顔と、私が初めて真堂君の見たときの顔が、同じだったから」


 だからつい、と彼女は照れくさそうに苦笑しながら言った。

 ゆらめく視界。曖昧な香りに心を縛られる。その温かさに鼻の奥がつんとする。


「永井さん」

「なに、真堂君?」

「もう少し。本当に、あと少しだけ……このままでいいですか?」

「──うん」

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