第9話


 ある程度まで仕事を終わらせると、夜食のあと、入浴を許された。


 この白河邸には有名銭湯もかくや立派な大浴場が備えつけられている。その浴場の掃除は永井さんが務めているらしい。


 着替えを持って一階東棟の奥へ向かう。

 途中で青いのれんがあり、そこには筆で書かれたような書体で「湯」と書かれてある。右にも同様に、赤いのれんにそう書かれていた。青が男湯である。


 青いのれんをくぐって、扉を開ける。すぐそこに木造の棚が並んでいる。奥には鏡が並列して何枚か張られている。


 その下には壁から伸びたように作られたテーブル。

 そこにドライヤーが備えられていた。

 部屋の隅にかごがあるのだが、そこには真っ白なタオルが何枚も重ねられている。


 棚に脱いだ服を入れ、扉を開けて浴場へ入っていく。中からあふれた湯気が顔にかかる。


 浴場内は生ぬるく、少しずつそれに合わせていくように体が火照っていった。

 まずシャワーで頭と体を洗い、全身を綺麗にしておく。


 それを終え、ようやく湯へ浸かることができる。

 足の先からゆっくりと入れて、肩まで浸からせる。

 同時にはぁ、と自然と気持ちよさそうな声がもれた。


「……にしても」


 何も話せていないな、あれから。


 書斎へ勝手に入ったことはたしかに悪かったとは思うが、それでもあそこまで怒気をあらわにすることがあろうか。


 いや、実際のところ抑えていたほうなのかもしれないが。


「あそこ、掃除しないのかな」


 浴室に俺の声が心地よく響く。顔を下に向けると、湯に歪みつつも俺の顔が映っている。


 いや、それよりもあの場所についてだ。たしかに掃除するべきだとは思う。だがそれ以上にもっと気にするべき点はいくつもある。


「どう考えても、あそこは普通の部屋じゃない」


 あの場所には血痕が見られた。


 もちろん、ただの見間違いの可能性もある。部屋は薄暗く見えづらかったし、なんらかのシミはついていたが、それが血液であるという確証には至らない。


「あと、あの日記」


 不定期で綴られていた、ソウ爺の一日の記録。

 あれでわかったことは、三つ。


 一つ、白河さんたちの実兄にあたる、白河〝宗次郎〟という人がいること。

 二つ、奥さん──つまり涼子さんはソウ爺に対して、依然として『化け物』扱いをしていたこと。

 三つ、ソウ爺が不貞を働いたこと。そして、その相手に妊娠が確認されたということ。

 

 三つ目に関して言えば、まだ確定ではない。どうやらソウ爺がその相手と夜をともにしたのは一度だけのようだった。だから、『彼女』がソウ爺との関係を続けるため、あえて妊娠という嘘をついた可能性だってある。


 それと、何かしらあの部屋の現状に繋がるものはないだろうか。


「うーん……」


 一つ目は関係はないだろう。


 二つ目は、あの部屋で夫に対して暴行をしていた……とか? 


 いや、違うか。奥さんはたしか『触らないで!』と言っていたはずだ。おまけにソウ爺との子を宿すことも、泣くほど嫌がっていたらしい。


 ならば、触れたくないものであるはずのソウ爺に自ら触れることがあるのだろうか? 


 三つめは、どうだ。


 仮にソウ爺がその報告を受け、『彼女』を部屋に呼び出したとする。ソウ爺はその彼女におろせ、と言ったとしたら。


 おそらくソウ爺を想っているであろう彼女がショックを受けるのは当然。もし本当に子供がお腹のなかにいたとしたら、なおさらだ。


 ──いや、違う!


 ソウ爺が、そんなことをするわけない。彼は心からの善人だ。たしかに彼の許されざることをしたのかもしれない。だが、ソウ爺がそんな……そんなもっとひどいこと……。


「あれ、俺、なんで……」

 

 自分でも不思議だった。なぜ、頑なに否定しようとするのか。

 俺にはまるでわからない。

 でも、あの日記を読んでいたときもそうだった。

 俺はたしかに迷っていた。それで、否定したかった。


 たしかにソウ爺は良い人だった。

 でも、それでも。

 彼が罪のない人間である、という固定観念は間違っている。


「それでも……」


 はっきりと間違っていると思いたくない。


「……あーもう、やめやめ。もう上がろう」


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