第8話
その後、俺は永井さんに指示を受けた。まず一階西棟の清掃だ。もちろん廊下だけでなく、部屋のほうも行う。
使われていない部屋に関しては入念にホコリといった汚れを払い、雑巾がけをする。
使われている部屋に関してはシーツの入れ替えもする。
ちなみにこういったベッドメイクの際には、必ずエプロンを着けなければならない。
そのさまを白河さんらに見られたときの恥ずかしさといったら、長期休暇が明けて肥満体型になったこの身を学校で友達に見られるくらい恥ずかしい。
俺は赤っ恥をかきながら、清掃に念を入れる。掃除自体は好きだが、この屋敷の一部であるはずの一回西棟を清掃するのはどうも気が引ける。
気が遠くなり、思わず背中から倒れそうだ。これで本当に一部なのだから、使用人二人でやっていけていることに尊敬の念を抱いた。
「楽しいでしょ?」
一階西棟の掃除を終えた昼ごろ、ロビーのほうに行くと永井さんがいた。そして顔を合わせるなり彼女は笑って、「ね? 楽しいでしょ?」と言ってきた。
それがその言葉どおりの意味ではないということはさすがにわかっている。つまりは皮肉だ。
正しくこの言葉を変換すると、「ね?
「ま、まあ……あれ。もしかして永井さん、もう仕事終わったんですか?」
「まあ、いま終わったところだけど」
「え⁉」
それは、おかしい。
彼女は東棟の一階二階、つまり東棟ごと清掃を行っていた。その彼女が、いま終わった。
西棟、しかも一階フロアだけの俺がいまやっと終わったというのに……。
「いつか慣れたらこれぐらいはできるわよ」
「そうですかね……」
「うん、もちろん。これからも頑張らなくちゃね?」
「ですね、もっとがんばります……って、一週間だけですよね、俺?」
彼女から事前に「一週間だけ」という条件つきでこうしてただ働きをしている。まあそれを招いたのは紛れもない自分ではあるが。
「あれ、そんなこと言ったかな、私」
「えぇ……!」
「嘘よ。ちゃんとそのつもりだから、そんな深刻そうな顔しない」
「もう」
そう言っておきながら、自然と口角がつり上がっていた。罰を受けているようなものなのに、この時間はちょっと楽しかったのだ。たぶんその理由には、永井さんの笑みを見ていたからということも含まれるのだろう。
いままでの永井さんは結んだままの唇に、無理やり笑みを浮かべていたような顔だった。
でも、いまの彼女は花が咲くみたいに、自然と唇をほころばせている。そういった面を見るのが、少しうれしかったのだ。
「じゃあ、掃除道具返してきます」
「うん、お疲れさま。まあ、このあとも仕事はあるけどね」
「そりゃなんとも、楽しいですね」
「ええ。楽しいものなのよ、この仕事」
そう言って、ははと笑い合った。
掃除用具を物置部屋に片づけてきたあと、戻ってくる途中である部屋が気になった。行くときも通りがかったのだが、あえて無視していた。しかし、その部屋──ソウ爺の部屋となると好奇心も刺激されるもの。
その部屋が書斎とわかったのは、部屋の脇に「白河宗助」という名札があったからである。
俺はドアノブに手を伸ばし、それを回す。扉を開ける。その先にきっと何かがあるんじゃないか、漠然と浮かんだ子供っぽい好奇心。
扉という境界線をまたいで、その向こうへ。
その、向こう──え?
「なんだ、これ」
まるで違う。俺が勝手に浮かべていたイメージとは、まるで違う。そこは本棚が並び、木造のデスクがあった。
だがきわめて存在感が大きかったものは、人形だ。むかし、ソウ爺から人形作りが趣味だと聞いたことがある。
その名残なのか、未完成状態の人形が一つと、感性された人形がいくつか置かれていた。等身大のものや、胸から上までしかないものもある。
しかし、どうやらここは書斎らしい。中は薄暗く、本棚やデスクの輪郭、部屋の隅っこを正確にとらえきれないほどだ。
そこまでなら、まだいい。
問題は。
本棚から本があふれ、床に何冊も落ちている。実際に本を開けてみるとページは雑に折られたり、破られていたりしていた。うっすらとだからわからない。けど、もし表紙やページにしみついているコレが、血だとしたら。
本だけじゃない。
部屋のすべてが、飛び散ったようにしみがついている。気のせいなのか(気のせいであってくれ)錆びた鉄の匂いが漂っている。鼻孔の奥をじわじわと刺激する匂い。
デスクのほう。それも、しみがついている。ハンカチで拭き取ろうとしたところ、もう拭えなくなっていることから、このしみがついてかなりの時間が経っているはずだ。
思わず、引き出しを開けてしまった。
そこに一冊の小さな日記帳。こちらにもしみがついているようだが、床に落ちているものと比べれば幾分かマシなほうだった。
その日記を開くと、脳髄が震えだした。奥歯ががちがちと音を鳴らす。もう少し強くなると、もう奥歯が欠けてしまうぐらい。
ここに来てようやく
つまり、五分ほどの間を空けてやっと恐怖の感覚を覚えたということだ。
日記に書かれた文章に視線を向け、暗いなか文字を正確に読み取ろうと目を細める。
どうやら毎日書いているわけじゃないらしい。
思いついたように日記にその一日のことを記しているのだろう。
「五月十一日 木曜日
私がこの家に来てから、もう数か月が経った。相変わらず妻である涼子は私に対して冷たい。どうも、生理的に気に入らないようだった。私はひどく胸が痛いが、きっと大丈夫だ。これからともに過ごしていけば、きっと彼女だっていつか心を開いてくれる。」
そういえば涼子さんとはあまり話したことがなかった。というより、彼女に関する記憶があまりに少なすぎる、ということだ。
──どうしてか、少し頭痛がする。
「六月二十五日 金曜日
妻とはそれなりに話せるようになった。それでもどこか怯えているように見えるが、これから同じように交流を深めていけば、もっと良い関係に発展するだろう。涼子は美しい。あれほどの上物は見たことがない。私とて、涼子ほどの女性を見ればそれなりに高揚感を覚えるというもの。この日記にはあまり下がかった文脈を込めたくはないが、やはり、涼子はいい。」
やはり奥さんと結婚してからまだ日が浅いからか、ソウ爺の喜びや奥さんへの想いが多く見られる。
「十二月二十五日 土曜日
先程。涼子が、ようやく私にすべてを許してくれた。ああ……でももったいない。彼女はそのときも私のことを化け物のように扱っていた。あのような青ざめた表情を見るのは初めてである。実際に事を終えてからは、彼女の顔はどこか空虚で、何かを失ったようなそんな相好であった。私は、彼女に何か悪いことでもしたのだろうか?」
ここではソウ爺が奥さんの態度に対する不安が見られた。
「十一月十一日 月曜日
久しくこの日記帳にて筆を走らせることになる。今月、私と涼子の子供が生まれる。私たちの愛の形が、ようやく現世に現れる。いや、それは些か大げさな表現か。とはいえ涙があふれるほどめでたいことは確かだ。そう、ようやくだ。ようやくなのだ。子供は息子なのだそう。きっと妻に似て、端正な顔で、聡明で、素晴らしい子になるだろう。私は期待している。名前はどうしようか。そうだ、私の字をとろう。宗助の『宗』という字だ。そこから、次の世代の白河家の君主としての意味を込めて、『宗次郎』だ。」
……宗次郎?
誰だ、それ。白河〝紅子〟ではなく、宗次郎?
そんなひと、うちの屋敷にはいないぞ。うちにいるのはたしか──白河紅子、咲良、永井さん、あと……あ。
あの執事のひとは、どういう名前だったか。あとで聞いてみよう。
とにかく、宗次郎さんなんてひとはいない。でもソウ爺自身がここに書いている以上、宗次郎さんの存在は確定している。
もしかしたら、
とりあえず、続きを見てみよう。
「五月一日 火曜日
この日記を書くのは、何年ぶりのことだろう。しばらくお無沙汰していたぶん、今回は書きたいことがいっぱいだ。まずめでたいことに、息子である宗次郎が生まれたあと、娘二人が生まれた。
私はたいへん喜んだが、やはり妻は相変わらず顔は冷めていた。痛みを伴う以上、やはり疲れてしまうものだろうが、最後に娘の咲良を生んでからもう数か月は経つ。
だというのに、まだ疲れているというのもおかしな気はする。いろいろ気を遣っているつもりなのだが、彼女からはっきりと言われた。
『あなたのような化け物と子供をこさえるなんて‼ もう、もう嫌だ……!』と。
まいってしまった、まさかの化け物呼ばわりとは。
そのとき、彼女は初めて涙を流した。私が背中を撫でようとすると、瞳をすぼめて、『ひっ』というような素っ頓狂な声を出して、手を払われた。
とりあえずは私はその場から離れた。
そしてその日、私は罪深き男となってしまった。
私は、妻以外の女性と関係を持ってしまった……。その女性は、私が落ち込んでいるところに現れて、私を慰めてくれた。
そのときそこに微かな光を見て、私はその女性を寝台へ誘った。
その女性は、まだ十七だ。まだ少女だったというのに……。妻を悲しませたあげく、このような行動に出るとは……私は、たしかに〝化け物〟だ。」
……これは、俺がどうこう言えるような問題じゃないだろう。誰が悪いとか、誰が良いとか、それを決めるのはたしかに他人かもしれない。
だが、この場合は──それを簡単にとんとんと決めてしまうなど、どこか違う気がするのだ。
いや、俺ははっきりと言葉にしたくないだけなのかもしれない。この事実に対するものではなく、ソウ爺に対する思いを、はっきりと明確にしたくないだけかもしれない。
これ以上、読むのは気が引けた。だが、あと一ページだけなら……と無邪気がゆえにたちの悪い好奇心がそれを邪魔した。
ページをめくり、俺は次の文に目を通す。
「六月二十一日
たいへんなことが起こってしまった。私は、あれほどの罪を背負ったというのにその上にまた罪を重ねてしまった。先月、私はある女性──少女と関係をもった。もちろん関係はそれっきりで済ませたが、しかし、やはりそれだけでは済ませてはくれなかった。
その少女は、私との子供をこさえたと言ってきた。私は──」
「なにを、しているのですか」
「え?」
声が聞こえたと同時に日記帳を閉じて、俺はぱっと顔を上げた。視線を向けた先に、扉からの光が降り注いでいる。
廊下の灯りが部屋にまで浸透してきているのだろう。その光の上に、血走った眼をこちらに向け、鋭い眼光を放ちながら俺にもう一度問いかけてくる。
「──なにを、しているのですか?」
敬語が抜けていないと突っ込むべきところではない。そんなことはとっくにわかっている。
だがそれ以前に、この場で一言も声に出すべきではないということも一目瞭然であった。
なにより、彼女──永井さんの気迫には思わず背筋が凍った。
体は硬直し、手元には閉じた日記帳。
言い訳を考える選択肢も見えなかった。思考がマヒし、この場で何をすべきかがわからなかった。いや、何もすべきではなかった。
ここでは言動も、行動も、余計なものでしかない。
「今すぐそれを引き出しに入れて。それで、すぐにこの部屋から出なさい」
俺はすぐには動けなかった。だから動かなくちゃと思ったときには、彼女が「早くっ‼」と声を荒立てた。
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