第7話

 翌日。

 目覚めると、そこはたしかに俺の部屋だった。じめじめとした地下室なんかじゃない。真っ白な壁と天井。白のシーツが敷かれたベッドの上で俺は目覚め、周りは本棚や木造の机などの家具がある。


 優雅な雰囲気漂う、この屋敷特有の部屋だ。


 あの場所とはまるで違う。


 いや、それよりも気がかりなのは。

 〝彼女〟があそこに現れたことだ。血液が注がれた大皿をプレートに乗せ、彼女はそれを食事だと称した。あまりに趣味の悪いいたずらのように思えた。だが、いたずらなどではない。彼女はそれを運び、『私』はそれを飲み干した。


 さぞそれがごちそうであるかのように。


 『私』は抵抗なく口に入れたのだ。


 あれが本当のことであるのなら、あそこはどこだ? あのような場所は見覚えがない。だが、地下室のように見えた。目の前は鉄格子であったし、どこかの刑務所とも考えられなくはない。


 しかし、刑務所の檻にしては刑務官の存在は一切見られなかった。他囚人の姿も確認できない。ならば独房かと思えば、そのわりには囚人への接触がしやすくなっている。


 ならあそこは刑務所ではない。


 地下室。


 ──いや、もっと最悪な場合も想定するべきだ。


 もしあの地下室が、最も近いところにあるとするなら。おそらくその最も近いところ、というのは「ここ」以外にないだろう。


 立派な建築物だ。誰が建てたのかわからないが、ここは緻密かつ豪奢に建設された洋館、白河邸。


 馬鹿げた話だが、それでも、あってもおかしくはないのかもしれない。


 その場合、どこからあの場所へ行けるか、という問題になるが──。


「失礼します」

「うわっ」

「? どうかいたしましたでしょうか?」

「いや、なんでもないです」


 そのひとは、夢に現れたあの女性と同じ顔をしていた。夢のときで見たときは、なんだか楽しそうに笑っていた。気のせいかもしれない。だが、その姿を見て俺は──。


「並木高等学校様から連絡を受けました。校内での事件発生により、緊急で二週間ほど連休期間となるとのことです」


 事件? と頭のなかでその言葉を反芻させる。このときに、数秒間思い浮かばなかったことが不思議でたまらなかった。


「あ」


 まず思い浮かんだのは、赤い液体で塗りつぶされた廊下。四肢や頭部など、部位が欠損した人間の残骸。次に黒岩真奈美という、最後に笑ったあの少女。そして、この手のなかに残る、生命を刈り取った感触。


 まだ鮮明に、その生々しい触感は蠢いていた。だが自然と吐き気はなかった。正常な感覚ならばここで異常な反応を見せるだろう。しかし俺にはなかった。ただそのときの記憶をはっきりと覚えている、というだけだった。


「そうですか……えっと、永井さん」

「はい?」首をかしげる永井さん。

「昨夜はごめんなさい。俺、永井さんにひどいことをして……その」


 永井さんの顔はきょとんとしている。まるでピンとこない、みたいな反応。あれだけ乱暴にしたのになんで直感で分からないのか、俺には理解しがたいものだった。


「あれは」


 一拍の間を空けて、永井さんは口を開いた。


「あのことは、もう気にしなくても大丈夫です。現に、私も気にしていませんから」


 さらっとした顔で、彼女はそう言った。何を言うのかと少し胸が苦しくなった俺は、彼女の言葉にどういった反応を見せればいいのかわからなかった。喜んだ顔を見せればいいのか。悲しい顔を見せればいいのか。あるいは無表情で返せばいいのか。


 何かを期待していたというわけではない。ただ、相手も緊張しているんじゃないかという心配が杞憂に終わってしまったことに拍子抜けしただけだ。


 たぶん、そんななんてことない気持ちだろう。


「そう、ですか。あ、あと」

「まだ何か?」

 あれ、なんか怒っている?

「昨日はわざわざ肩を貸してくれてありがとうございました」

「あのままロビーの床で寝てもらっても困ります。──あるいは、そのほうがよかったのですか?」

「まさか。そんなことはないです」


 やっぱり、怒っているように見える。無表情に思えた相好はどこか強張っているように思えてきたのも、やはりそのせいか。


 これを決定づけるのが、彼女の言葉にある棘だ。いばらのごとく尖った鋭い棘は、チクチクと俺に傷をつけてくる。


 俺のなかの永井さんのイメージは、もっと柔らかい印象だ。本来なら、こんな刺々しいひとではないのだろう。


 となると、彼女の怒りを買ったのは……。


「あの永井さん?」

「……なんですか?」

「もしかして、怒っています……?」


 俺がそう問うと、少しのあいだ、彼女は顔を下に向ける。

 そして肩をぴくぴくと震わせ、そっと顔を上げると──。


「怒っているに決まっているでしょうっ‼」


「えぇ⁉」

「いきなりあんなことして……それで、質問に答えろ、だなんて……ひどすぎます」


 俺は即座にベッドから飛ぶように離れて、永井さんに近寄った。


「本当にごめんなさい!」

「いいえ、許しません」

「本当にすいません!」

「許しません」

「本当に申し訳ございませんでした!」

「……許しません」

「代わりといってもなんですが。俺、なんでもしますからっ!」

「……本当、ですか?」

「はい、もちろん!」


 そう言って、彼女は顎に指を添えて考えだした。

 ちょっと、嫌な予感。


「本当に、なんでもなんですね?」

「え、えっとぉ……実質、なんでもとは言っていない、」

「ん?」

「いえ、わかりましたなんでもしますだから許してください」


 年上の女性って、怖い。


「それでは。真堂さまには、執事としてアルバイトをしてもらいましょうか。もちろん、ただ働きで」

「……え?」

「ふうん。何か異論でもあるのかしら、真堂君?」

「……ありません」


 女の人って、こんな楽しそうな(邪悪)な表情を浮かべるのか。

この時、初めて年上の女性の恐ろしさを垣間見た瞬間であった。


 あぁ、こわい。




 朝食を終えたあと、俺はさまざまなことを頭にたたき入れた。基本的な一日のスケジュールであったり、礼儀作法であったり、である。そのあと俺は永井さんに連れられ、一階東棟のずっと奥にある部屋に入った。


 そこでは燕尾えんび服もとい執事服を着せられた。俺はそれを身にまとい、縦に伸びた大きな鏡の前に立つたび、頬をひきつらせた。そのときの苦笑の顔が鏡にも映るので、〝最悪だな〟と胸中でつぶやくことになる。

「うーん。このデザインはどうもねぇ……」

 まるで着せ替えされている人形──いや、子供みたいだ。永井さんはその子供の親で、よっぽどの親ばか。身内褒めばかりしてくる、子供にしてみればかなり頬が赤くなるような母親。

「真堂さ、いえ。真堂君、これとかどう?」

 どうやら「真堂さま」呼びがまだ抜けていないようだった。

「いや、どうとか言われましても」

 正直、デザインはなんでもよかった。でも俺が実際にそう言うと、「だめ。使用人は見た目も正しくしなきゃならないんだから」と少し怒ったように彼女は言った。

正しくするだけならなんでもいいのでは、というのは内緒にしとこう。

 しかし。

 こうして彼女を見ると、どこか楽しそうに笑っているところが多い。昨日のこと、一昨日のことを思い浮かべてみる。そのときの彼女とはまるで違う。夜のときはもちろんだが、昼のときの彼女はどうだろう。同じ笑顔でも、どこか違いがあるように見えてしまうのだ。

「永井さんって、けっこう笑うんですね」

「え?」

 俺の服を整えているところ、彼女はぱっと顔を上げた。

「私、そんな笑ってなかったかしら」

「いえ、笑ってはいましたけど。でも、なんか違うというか。理屈とかじゃなく、もっと別の……」

「ふうん」と言ったあと、永井さんはふっと笑う。「そうですよ。営業スマイルとかじゃなく、素の笑顔なんです」

「っ……」

「ん? どうかしたの?」

「いや、敬語。抜けてないな、と」

「あ」


 正直、そこを気にしたのではない。ならば俺が何を気にしたというのか。そんなの、決まっている。彼女の素の笑顔だろう。

アレは、どうも俺には眩しいものらしい。思わず目蓋を閉じたくなるような強い、チカチカとするような光。目に入れれば毒にも薬にもなるような笑顔ひかり


 ──どうも、におうな。

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