第6話

 薄暗い空間。湿った空気。少し濡れた地面。その濡れた箇所はうっすらと赤が滲んでいる。ぴたり、と何かがその赤に落ちる。赤は、天井から落ちているのだ。その色を保って、ぴたり、そしてまたぴたりと一瞬で地面につく。


 ──ぴたり。


 一度、自分の血を使って天井に絵を描いたからだろう。薄暗いので、その形ははっきりとはしていない。だが、そこには花の絵が描いてある。黒い薔薇、のつもりで描いたものだ。


 ──ぴたり。


 黒い薔薇。

 花言葉に「永遠の死」というものがある。何を思って描いたのか、今ではそれがわからない。理由なんてない、ということにしたい。実際のところ思い出せないのではなく、思い出したくないだけかもしれない。


 ──ぴたり。


 階段から、音がする。何本も並列された鉄格子の向こう、上がりの階段からとんとんと乾いた音が鳴っている。その音がこちらにまで響いてきて、この静寂な空間のなか、二つの音が重なる。


 ──ぴたり。

 ──とんとん。


 おそらく、待ちに待った食事だ。〝彼女〟が、それを運んでくれている。上体を起こし、胡坐あぐらの体勢で彼女を待つ。


 ──ぴたり。

 ──とんとん


 遠かった音はだんだんと近づいてくる。そしてようやくスカートのすそが見えたところで、


「待っていたよ」


 と言葉にした。地下室に幽閉されている以上、どうしても会話をする相手がいない。唯一いるとすれば、毎日食事を運んでくれる彼女だ。彼女は白黒の正装で毎日この場所で働いている。

 おまけに、自分のような怪物の世話もしてくれている。こちらにとっては過不足ない生活だ。


 地下室というのは落ち着く。自分のような怪物に相応しい。じめじめとしたこの雰囲気や、薄暗く、不明瞭な空間。このような場所を、異界なのだという。


 ちょうどいい。自分のような異界の住人にはそれらしい住居いかいを用意すべきだ。だから場所自体を不満に思うこともないし、食事だって彼女が毎日朝昼晩わすれずに持ってくる。だから過ぎてるものも、不足してるものも、ここには存在しない。


「申し訳ございません、たいへんお待たせしました」


 と、彼女は皿が乗せられたプレートを持ちながら頭を下げる。


「本気にしなくていい。いまのは挨拶だ」


 そう言うとうっすらと彼女が微笑む顔が見えた。安堵の息をもらしていた。


「お食事です」


 彼女は扉を開けて、プレートごとこちらに渡してきた。そのプレートの上に乗せられた大皿は、深紅に満ち足りていた。部屋の明度により多少は黒く見える。だが、黒が滲んだ深い紅色は、こちらの欲をたぎらせるほどの魅力を放っていた。


 スープを飲むように、皿の淵に口をつけて傾ける。唇に少しぬるめの感触が伝わる。それを口に入れて、喉にごくりと通す。舌に触れ、奥から湧き上がる高揚感。


 渇いた欲望が満たされていく感覚はない。むしろもっと、もっと──と深く味わうたびに強欲なまでにそれを欲してしまうほど、渇いていく。


 そして、すべてを飲み干した。


「おいしかったよ」


 と彼女に皿を渡す。白黒の彼女は満足そうに笑みを浮かべている。その笑みを見て、ふと心が重くなったのは気のせいだ。


 ──とんとん。

 ──ぴたり。


 こちらに背中を向けて、彼女は階段を上っていく。従順な彼女を見ると、ひどく自分は間違えているんじゃないかと思えてしまう。だがそんなことは考えるな。そう言い聞かせた。


 ──ぴたり。


 やがて、音は一つだけになる。

 彼女はもう、この地下室から去っていた。


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