第5話


 靴箱。この場をあとにする前に、嗅ぎつけられるのは防ぎたいからと上靴を脱いで、ポケットからハンカチを取り出す。靴底についた血を拭う。完璧には拭いきれなかった。


「仕方ないね」


 上靴を鞄のなかに押し入れて、俺は靴箱からシューズを取り出し、履いた。つま先を地面に向けてとんとんと鳴らし、履き心地を整え、歩き出す。そっと浅くため息をついて、扉という境界線をまたいだ。


 そのとき。


「君」


 右横。壁にもたれかかって、目をつぶっている白黒の男が俺を呼んだ。


「……ふうん。今日の夜は危なっかしくて落ち着かない。月に魅入られた吸血鬼どもは、なにゆえ聖なる学び舎に集まってくるのかな?」


 ふ、と鼻で笑う声。嘲笑ともとれる笑いだ。


「それは君も同じだろう。いくら暗い悪夢に侵されただけの身であっても、それは間違いなく僕らと同じ性質モノじゃないか」

「悪夢か。そりゃいい例えだね。たしかに命を救われた身でも、こんなんじゃ人間まともな状態で生きていけない」

「だろう?」

「ま、命あっての物種ともいうし。感謝はしてるとも」


 ああ、まったくそのとおり。


 あの少女には深く感謝しているが、吸血鬼オレを、純粋であったはずのこの身体と混ぜ合わせたのは、少々頭が足りないと思う。この身はそういった異端者を排するために存在しているのに、そこに異端と混ぜて、濁らせるなんて。そんな無粋なことをされちゃ、親父を含め先代たちにはなんと詫びたらいいか、正直わからない。


「しかし、どうも違うね」


 男はそう怪訝そうにつぶやく。


「まるで君じゃないみたいだ。どうしてなんだい」

「さあね。俺にもまるで分からない。ただまあ、時に欲望っていうのは一番前に出ることがあってさ。俺の場合、そういうことだろう」

「……それもそうか。もとより僕らは夜に活きる」

「とはいえ、三つ子の魂百までってのは本当らしい。自分自身も、アンタも、見れば見るほど苛立ってしまう。……今にでも殺したくなるほどにね」

「よかったじゃないか。純粋であったはずのその身体とやらも、捨てたものじゃないってことさ」

「そうかな」

「──案外、そっちの君のほうが解放きゅうさいをもたらしてくれるのかもしれないね」

「どういう意味?」

「さあ。それより早く行ったほうがいい。誰かに見つかるかもしれないしね」

 こくり、と頷き、一歩踏み出したところで俺は尋ねた。

「アンタは?」

「帰らないよ。──まだ『私』には、屍人ぶかのしつけが残っていますから」

 誰だ、こいつ。

 急に知らない誰かが出てきたため、俺は一瞬戸惑ってしまった。

「ふーん。じゃ、また」

「ええ」


 と、お互い手を振りあう。でも俺が手を振っていた相手は、先ほどまで駄弁っていた相手とは全く違う、もっと〝上等な魂〟であった。


 少しばかり急な坂を越えると、すぐ白河邸に着けるようになっている。その坂は住宅街の中心にある坂である。その坂の道中には道の左右交互に外灯が設置されており、一つは点滅している。灯りに照らされ、道の真ん中に影が伸びる。俺は一度止まって、その影に目を向けた。


 なんてことない、真堂隆之という人間(人間?)のシルエットどおり。なんの疑念も懸念も必要ない。いつもどおりの俺。


 ■■■《きゅうけつき》なんて、そんなの──。


 血を見ると、どうも頭が痛くなる。頭痛が止まらなくなって、動悸は高まって、最終的にはどれも落ち着いてきて。そして、俺ではない(俺である)誰かが、この身体を乗っ取って、勝手に話を進める。


 その誰か(俺)のせいで、黒岩真奈美は……彼女は……。


 救われた、だなんて思うな。

 これでよかった、だなんて思うな。

 彼女は笑っていた、だなんて思うな。


「真堂隆之という縛りからは解放された」


 そんなの──そんなの──。


「これも、一つの終着点なのさ」


 こんなこと、俺は望んでいない。


「でも、彼女は望んでいた」


 それは……!


〝わたしが一番に望んでいたのは、理解してもらうだけ。慰めてもらうことでも、一緒になることでもない。理解して、認めてもらうだけでよかった。ただ、わたしだって耐えることができるんだよって伝えたかった……わたしの苦しみを代わりに背負ってくれた、誰かさんに〟


 その言葉が、頭のなかにぱっと蘇ってきた。笑みを浮かべていた彼女が、死に際とは思えないくらい晴れやかな声で、俺にそう言っていた。


 俺は無意識に手のひらを閉じて、握りしめ、拳を作る。それを振り上げて、膝にぶつけようとしたがためらいが生じて、だらりと腕を下ろす。


「あとは、拷問だな」


 俺(俺?)は、坂を上り白河邸へとたどり着く。門を抜けて、玄関を開けると目の前に広い空間が現れる。天井にはひまわりのような、華の形をしたシャンデリア。光があれば鮮やかな紅のカーペットが敷かれたロビーの真ん中、きょとんとしている女性の顔があった。


「あ、真堂さま! あの、どうかなさいましたでしょうか? お帰りが遅いと紅子お嬢様がご心配を──え、あの。どうしてそんな──っ!?」


 淡々と早いペースで迫っていき、後頭部に手をまわして、俺の顔に寄せる。そして、彼女の唇をふさぐ。柔らかく、レモンのような甘酸っぱい味を感じる。その味をたっぷりと味わうために、深く、深く彼女のなかに迫っていく。


「……ん、んぅ……!」


 未だに文句を言いたいらしい、と思い、口を開けさせ、彼女の舌と俺の舌を絡ませる。俺のなかに支配欲がじわじわと湧いてきて、彼女を支配したいという気持ちが強くなる。

 だがそこまではいくな、と自分に命じる。

 いったん、唇を離す。


「……あ、あの。いきなりどうして」


 紅潮した頬。額からは汗が多少滲んでいる。

 唇はてらてらと光を放つ。その唇が震えて、何かを言おうとしているさまがあまりに蠱惑的こわくてきだと感動して、さらに高揚感が増す。


「喋らないで」


 再び。

 やがて永井の姿勢が崩れていき、後ろへ倒れていく。背中に手をまわして、ゆっくりと俺が彼女を組み伏せる形にしてみる。そうしたあとで、彼女の両手を握りしめ、また交わる。

 唇を離す。


「永井さん、正直に答えてください」

「え……?」

「昨日、永井さんは白河さんと何をしていたんですか?」


 何を? とぼんやりとした小さな声でつぶやく。そうやってとぼける彼女に、少しばかりの苛立ちを持ってしまう。


「答えてください。じゃないと俺、ここで永井さんをめちゃくちゃにしますから」


 脅しをかける。すると彼女の目蓋は大きく開かれる。その瞳孔の奥から恐怖を感じる。握りしめている彼女の手からは、温かさと、震えを感じる。そこでふと違和感を覚えた。どうしてか、彼女から拒絶を一つも感じ取れないことを。


 そこで、今朝見た夢の内容を思い出す。そして、一つの答えにたどり着いた。思わず口角がつり上がりそうになるのをこらえる。


「紅子お嬢様とは……その」

「なに?」

「血を、吸っていただいただけで……」

「わからないな。なんでそんなことを?」

「……そ、それ以上は……」

「口止めされてるって? 残念、彼女が吸血鬼だってことはわかっているんです」


 え、と声にもならない声でつぶやいた。瞳がうるんでいる。目じりから涙が流れ、やがて床に付着する。


「……そ、そうすることで」

「はい」

「お嬢様の……衝動を、抑制できますから」


 衝動、とはおそらく吸血衝動を指すのだろう。俺のなかにも存在する、とてつもない衝撃と支配力を持つ暴力。一度でも衝動に従ってしまえばそれで終わり。俺や彼女のような混血は一度でも血を吸ってしまえば、怪物あくに近づいてしまう。


 なら、永井の血を吸うのはデメリットであるはず。

 だが、それでも吸って正常ということは何かメリットがあるということ。

 それが吸血衝動を抑制するというものだろう。つまり、彼女の血にはそのような特別な能力が備わっているのか。


「永井の血には、どんな秘密があるんですか?」

「……そ、れは」


 右手を離して、彼女の胸元に指先を這わせるようにして触れる。びくりと彼女の肩が跳ねて、弾けたように喘いだ。


「まあいい。そういうものだと分かれば十分だ」


 なんということか。これは情けなのか、俺自身の甘さなのかわからないが、涙目になって怯えている顔を見て、ふとそんなことを言って許してしまった。


「でも、これだけは妥協できません」

「え?」

「深夜。寝ているとき、俺に何かしたでしょう」


 すると彼女の顔は大きく目を見開いて、何かを言おうとして口をぱくぱくさせている。だが彼女はそれ以前に言葉を失い、否定や言い訳を口にすることもままならないようだ。そんな姿を見て、多少心が痛む自分がいた。それでも、先ほどのように妥協するわけにはいかない。


「俺を、襲いましたね?」

「あ、あの」

「違わないでしょう。それはなぜですか」


 思えば、この体がおかしくなったのは──いや、本来在るべき形に戻ったのは、今日からだった。昨日まではこんな状態ではなかったし、忘れかけていた記憶が一気に引き戻されたのも、今日からだ。


「……気づいて、いたんです」

「なにに?」

「昨日、お嬢様とお部屋にいるとき。視線を感じて。そしたら、扉のすき間から真堂さまが覗いていらっしゃいまして」

「それで?」

「そのときのお姿を見て、その──」

「興奮、したわけですか」


 代わりに俺がそう言うと、永井は頬をさらに赤く染めて、手で覆いたそうにしていた。だが両手は俺が拘束している。腕を上げることすらできない今、彼女はどうすることもできない。


「そんな趣味があったとは驚きですね。──でも、俺がもっと気になっているのは、性交渉することで相手に何かを効果を与えるものでもあるのかってことです」


 吸血されることにおいての効果は十分に理解できた。が、ただ昨夜の行為にどんな意味があったのか、俺はそれを知りたい。


「それは──それだけは、お話できません」

「……」

「ここで私が乱暴を受けても、構いません。それで貴方が満足できるなら、構いません」


 ……使用人はそう言った。

 話す義務はない、そして話してはいけない義務があると顔を背けながら言った。その瞳は涙で濡れ、ひどく悲しそうに、ひどく辛そうにしているのを俺に見せないようにして、女は言った。


 上等な肉だと牙を突き立てようとする自分と、魅力的な人だと感じてしまっている自分が背中合わせでいる。


 ……使用人は目蓋を強く閉じる。

 ここで犯しても構わないと彼女は言った。だから覚悟を決めているフリをしているのだ。下唇を噛みしめて、肩を震わせて、頬に涙の筋を作って、彼女は耐えている。


 俺は──魅力的だと感じている自分を、優先した。


 だから汚したくない。俺は純粋に、そう思った。


「すいません。俺、怖かったんです」


 だから、真堂隆之ニンゲンとして言葉を交わすことを、自分自身にたくす。


 俺はいったん永井さんの身体から離れ、足をたたんで正座の体勢で座る。


「だからって、こんなことしちゃいけないですよね。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」

「……」


 上体を起こして永井さんは俺のほうを見ている。視線が合ったとき、俺はとっさに顔を下に向けた。膝の上に置かれた拳を強く握りしめ、先ほどまでの自分の行いを頭のなかで反芻させる。


 そのたび、あのときの俺はたしかに真堂隆之おれであったのだと明確になることに対して反吐が出そうになる。


 それはつまり、あんな最低なことをしたのは間違いなく俺だということだ。

 いや、待ってくれよ。

 本当に。

 それは、本当に。


 本当に──俺──なのか──?


「あの、真堂さま?」


 記憶のはこが、一つ開けられている。

 すべての記憶が、平然と頭のなかで浮遊している。新たな記憶とともに、錆びついていたはずの記憶もその身を洗って、綺麗せんめいなままの状態でいる。


「どうかなさったのですか?」


 その記憶に、簡単に触れることができる。

 俺はそれに、ふと触れてみたいと手を伸ばして──。


 ある少女との記憶。

 そこで。


 俺は一度、一度死んだ。

 俺は一度、蘇った。


 俺の血は、それを正しく記録している。


「俺は──何者なんだ──?」



 自分への不安。

 自分への疑心暗鬼。

 自分への絶望。

 回路の乱れ。

 呼吸の乱れ。

 動悸の乱れ。

 存在の乱れ。

 概念の乱れ。

 自我崩壊の音。

 自我摩擦の匂い。

 自我拒絶の味。

 肉への欲望。

 血への渇望。

 性への熱望。

 

 俺は、いつの間にか知っていたのだ。


 ──自己に対する嫌悪感。


 今まで抱いていたその気持ちの正体が、今だからこそ、ようやく理解できた。


 最も俺が嫌悪する化け物が、俺のなかにいる──それが、自己嫌悪の正体。


 俺の、正体。

 しわがれた声が(これは、)耳元で(幻だ)ささやく。

〝退魔の、祖〟

 真堂という血が記録した、すべての物語が俺を呼び覚ます。

 そのこえに、誘われる。


 そして、一つの記録が正しく記録し直される。


 真堂隆之という人間の、ある一つの結末イフが、記されていたのだ。


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