第4話 風鈴の声は途切れ──、

「おーいまじかよー」


 また寝てしまったらしい。夜はしっかり睡眠をとっているというのに、なぜこうまでして眠ってしまうことが多いのだろう。


「まあ、いいや」


 本来なら放課後に黒岩さんの家を訪ねようと考えていたのだが、どうやらそういうわけにはいかないらしい。

 黒板の上にかけられてある時計を見ると、現在午後二十三時……え、九時? そんな時間まで俺は眠っていたのか? いくらなんでもそれはおかしいだろう。教師は見回りとかしないのだろうか?


 通学鞄に書物を入れて、教室の扉を開ける。


「は?」


 紅いなにかが、そこら中に飛び散っている。まるで装飾デコレーションされたかのようにその正体不明(ああ、)の液体(わかっているとも)と、ある物体がその場に置かれていた。


 この、匂い──。


 うなじに冷たい感触。

 指でそれをふき取り、眼前にまでもっていくと。


「は、はは」


 血、なんだとそこで初めて認識できた。正しく理解できていたはずだというのに、それでもソレを血液だと認めたくなかった自分がいたのだ。


 天井を見上げる。そこも、装飾されていた。

 呼吸を止めて、唇の端を引きつらせて、じっと見ている。

 数十秒間、そうしていた。ただただ立ち尽くして、息を吸うことさえ忘れて、あるべき恐怖の感情も忘れ去って。


 前へ顔を向け、歩く。

 のらり、くらり。

 脳漿のうしょうが沸騰したみたいに、頭のなかが熱い。

 血の匂いに吐き気を覚える自分と、それに酔う自分が一つの身体のなかに存在している。


 血だまりのなかをためらわず踏んで、赤い足跡を残していく。


 喰いちぎられたかのように断裂した四肢。

 抉りだされた眼球。

 口の周りを喰われたのか、すっかり歯茎がまる見え。


 途中。

 墓場から蘇ったみたいに右腕を失った元・人間が起き上がってくる。俺の匂いを嗅ぎつけて、こちらにやってくる。


 奴も俺と同じように、のらりくらりとおぼつかない足取りで歩いている。しょせんは死に損ない。


 かけるべき情は、一切ない。


 右足を軸にして、身体を回転させる。

 左足を上げて、頬に当てる。

すると衝撃により、首から上がなくなり、頭は窓を突き破って外へ。


 体をよろめかせる。

 その隙を突いて、胸を拳で叩く。

 弱点を、俺は知っていた。

 鋼鉄の心臓、だなんて言われているソレは、内側から破壊することで初めて消滅するのだと。


 憎らしい怪物が今度こそ動きを止めて、倒れる。


 歩く。歩く。歩く。歩く。


 すると、すぐに〝親〟を見つけられた。


 それは、女のカタチをしている。人間の女のカタチを。


「──こんばんは、隆之くん」

「いじらしいじゃないか。わざわざ準備をしてくれていたのかい、黒岩さん?」


 血の匂いで充満した空間。俺は常にそれを吸っているわけだから、衝動がこみ上げてくるのは当然のこと。


 でも、だめだ。

 まったくなっていない。


 あの女のものに比べてみれば、こんなの泥水だ。


「そうよ。いま身体を洗っていたところなんだから」


 彼女は自ら全身の肌をさらけ出し、血を浴びていた。白い肌に一筋の血がつたう。


「はしたない子は好き?」


 黒岩は俺にそう問いかける。

 黒岩は指先を自分の腹に這わせて、やがて降りてくる。その仕草があまりに扇情的で、俺は思わずこう答える。


「ああ、好きだよ」

「そう、よかった」


 一歩一歩、丁寧に歩いてくる黒岩。血だまりを踏むたび、ぴちゃぴちゃと水音が鳴る。やがて俺の目の前にやってきて、首に腕を回してきた。


 接吻でもしかねないほどの距離だ。


「こんな舞台を用意したのも、君か?」

「ええ。もうもどかしくて仕方がなかった」

「それはずいぶんと待たせてしまったな」


 軽く触れ合う、唇。

 今の俺はまるで俺じゃないかのようだ。そして目の前の黒岩も、まるで彼女本人ではないかのよう。


「頬についてる」


 そう言って、いつの間にかついていたらしい頬の血を舌で舐めとる。耳元で甘い吐息。この息だけでも、ひどく心地いいものだった。


「今日のあなたは、なんだか違う人みたい」

「違わないさ」

「ふふ、そう。──ねえ」


 とろけた瞳を俺に向けて、少女は言う。


「わたしは、あなたがほしいの」


 柔らかく、甘い声と言葉。その誘いはあまりに魅力的で、喉から手が出るほどだ。でも、俺はいま、それに乗る気分じゃない。


「俺は君よりもっと上等なものを知っている。知ってしまった以上、そいつを堕としたくなる。俺の目をよく見ろ。これが君とヤり合いたい目だと思うか?」

「たしかに、そうね」

「激しく乱れる君を見れる、というのはいいかもしれないけどね。それでも俺は一度決めたことは曲げないんだ」

「ふうん、そう」


 少女は精一杯に抱きしめてくる。胸に顔をうずめて、そっと囁くように「大好きだった……」と言っていたのを、俺は聞き逃さなかった。


 少女は胸から顔を離す。首筋に、軽い吐息がかかる。それと同時に少女は大きく口を開き、牙を突き立てようとする瞬間。その少女の命を、俺が刈り取った。


 彼女の胸に腕を貫かせ、その生命の証を握りしめる。

 ほとばしる命の奔流。

 その暖かさが手のひらに広がり、俺の心はその熱は浮かされていく。


「真堂くん」


 少女は首筋から顔を遠ざけ、俺と目を合わせる。彼女の大きな瞳からは、およそ生を感じさせるほどの力は感じられなかった。それも当然だろう。いま彼女の命を握っているのは、まさしく俺なのだから。


「お別れ、なんだね」


 そう、お別れなのだ。


「でも、嬉しかった。こうして抱擁してくれて、わたしと真っ正面から話してくれて」


 先ほどの彼女とは、まるで違う。

 いま俺が片手で抱きしめているこの少女は、黒岩真奈美なのだ。


「これで、解放されるんだね」


 彼女は自らこれを、解放と名づけた。


「ずっと苦しいままで、どんなことをしてもこの苦しみをあなたとは分かち合えないって思ってたけど……けど、いまというこの瞬間は、そうでもない」


 そんなことはない、と俺は言葉にしたかった。

 でも、きっと彼女と一緒になったところでもう遅いのだろう。


 そうすれば、彼女も、自分も。そして周囲を傷つけ、大切であったはずの誰かの命を奪うことになる。

 そんな結末ものがたりは嫌だ、と少女はそう言っているのだ。


「なんの心残りなんてない。たくさんあるかもしれないけど、いまだけは、なかったことにしていいかな」


 いいんじゃないか、と俺は言った。


「なんだ……たったこれだけでよかったんだ」


 どういうこと? と俺は尋ねる。


「わたしが一番に望んでいたのは、理解してもらうだけ。慰めてもらうことでも、一緒になることでもない。理解して、認めてもらうだけでよかった。ただ、わたしだって耐えることができるんだよって伝えたかった……わたしの苦しみを代わりに背負ってくれた、誰かさんに」


 そうか、とつぶやく。

 視界が、歪んだ。


「涙なんて流さなくていいのに。わたしは見てのとおり、ただの殺戮者。そんな化け物に涙を流す価値なんてないでしょ? ──だからさ、最後はめいっぱいに殺してよ」


 彼女は、間違いなく殺戮者だ。

無駄な殺しをした大馬鹿者。その罪の償い方に死を選ぶなど、あまりに滑稽。それはただの逃げだ。


 だが……それでも、涙を流すほどの価値はあるだろう。


 俺にとって、大事なひとだったから。

 ただそれだけでも、涙を流す価値はある。


 俺は、さよならと口にして、ソレを強く握りしめる。そしてそれは、まるで風船のように割れた。中から大量の液体があふれて、下へ流れていく。


「長かった……ほんとうに、長かったなあ……」


 そう言って、彼女は首をがくんと俺の胸に預けてきた。

 亡骸となってしまった人間のかるさは、俺は二度と感じたくないと嫌悪した。


 その亡骸を傷つけないように、大事に床へおろした。

 俺はその後、二度と目を向けないように、努めてただ前だけを向いた。


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