第2話

 夢を、視た。

 モノクロの空間。そこは豪華な屋敷のそばにある花壇。ある少女と追いかけっこをしている途中で、そこへ行きついた自分。

 モノクロの服を着たお姉さんが、花に水をやっている。当時の俺は、その顔に少しばかりの不安と恐怖を覚えた。お花が好きじゃないのかな? そう思うほどに、その人の目は光を失っていて、怒りとも哀しみともとれぬ、感情を亡くした顔。


 死に顔がどんなものか、と問われれば、きっとあんな顔だろう。


 それと──あれ。

 体型がいまと違う。お腹のあたりが妙に膨らんでいる。あれは……いったい。


「隆之!」

「は、はい!」


 誰かが俺を呼ぶ声がして、飛び起きた。夢と現実の境目をあっという間に行き来できていた。しかしその代わりに、夢と現実の区別がしばらくできないでいた。


「いまの続きを読みなさい」

「え、いまの続き……?」


 やべ、授業ぜんぜん聞いていなかった。


それからのことはすんなりと進んでいった。急によみがえった記憶について、ときおり考えを巡らせていたが、結論のでないことは考えないようにしたかったため、少し自重した。


* * *


「んぅ……」


 目を、開ける。

 目蓋が重い。

 後頭部をかきながら、頭を上げると、中村と田中がいた。


「なんでお前らがいるんだ……?」


 窓のほうに目を向けると、すでに陽は沈んでいた。空は黒く染まり、点々と小さな光の粒が空にくっついている。


「あのなぁ。おまえ、今日寝すぎじゃねえか? やっぱり家で休んだほうがよかったんだよ」


 と、中村の声。

 田中はうんうん、と頷いている。二人とも俺のことを呆れている様子でいた。中村は深いため息をつき、田中は目を細めて俺を見ている。


「あれ。また、俺ねていたのか」

「ああ、寝ていましたとも。そりゃもうぐっすりと。オレらが忘れ物とりにこなかったらどうなってたんだろうなあ、ったく」


 そういうこと、だったのか。

 俺はあくびをしつつ、体を伸ばす。首を何回か回転させると、ごきっと固い音が鳴る。俺は通学鞄に教科書やノートを入れて、「それじゃ、帰ろうか」と言った。


 いつもどおりの言葉にさらに呆れて、二人とも同じタイミングではぁ……と深いため息をつく。


「ごめんって」さすがに謝ることにした。


 夜道。午後七時となった今、ここはもう完全な夜に囲まれている。きらりと光る星も少なく、ただ冷ややかな冬の風が耳を撫でていくだけ。


 こうして中村たちといっしょに帰るのは、久々のことだったと思う。それでも学校で過ごしているときと同じように、ただ冗談を言い合ったり、今日のことで面白かったことを互いに共有したりしていた。


 同じ、ということがどれだけ自分にやすらぎをくれるのか、改めてここで俺は知った。


 でも、そんななかでも違和感はあった。

 一回、失踪事件のことを田中が口に出しかけたところを中村が「ばか、やめろ」と制止していたのである。


 なぜだろう、と首をかしげたところ、中村が「ところで隆之。おまえ、引っ越したんだったよな。屋敷での暮らしはどうよ?」と違う話題に切り替えてきたのだ。


 たしかな違和感はあったが、ただそれがおかしかっただけのこと。まあ言ってしまえば、とくにそれを探る気は俺にはなかったのだ。


 先ほどの俺の引っ越し先の話題の延長として、中村と田中は俺の屋敷をぜひ見たいと言い出した。帰りが遅くなるけどいいか? と問うと、中村は「ぜんぜん大丈夫。まだこの時間帯、親働いてくれてるからよ」と胸を張っていた。


 田中もそれに続けて首肯して、全員で屋敷のほうへ行くことになった。


 そのあいだも少々下品な会話なんかをしながら歩いていたので、屋敷に着くまでの時間は昨日より格段に短く感じた。


 いざ屋敷に着くと、中村と田中は「すげえ」とどうやらあの建物に見入っていた。それに続けて中村が「いや、でかすぎやしないか……」と昨日の俺と同じようなことを言っていて、少し吹きかけた。


 満足した二人にはさよならをして、俺は門を通りぬけて玄関を開ける。すると、気の遠くなるような空間が目の前に現れる。


 昨日、学校に帰ってからここで過ごしたことが未だに信じられない。


 いったいここに慣れるのにどれくらいの時間を要するのだろう。


 とりあえず自分の部屋へ行こうとすると、白河さんが二階から現れた。俺の姿を見るなりぱっと目を見開いて、あわてて階段を降りてきた。


「だ、大丈夫だったの?」

「大丈夫ってなにが?」


 本当にわからなかった。


「い、いえ……うーん、やっぱりわたしの杞憂だったのかなあ」

「うん?」

「まあ、油断大敵って言葉もあるし。タカユキ、今夜はちゃんとあたたかくして寝ること、いいわね!」

「あ、ああ。わかったよ」


 彼女の物言いがどこか変なことは明らかだった。


「どうかしたの?」

「いや、本当になんでもないから、大丈夫よ」


 そのあと、部屋に荷物を置くと食事ですと永井さんに呼ばれたので、食堂へとやってきた。昨日と変わらず食事はかなり豪華である。よだれが垂れそうだ。


「タカユキ」


 白河さんにそう呼ばれて、俺は首をかしげる。


「もうここには慣れた?」


 彼女と目を合わせる。彼女の瞳は、どこか不安そうな色をにじませていた。


「どうだろう。やっぱりまだ新鮮なことばかりでさ」

「そう。でも早く馴染もうとしなくていいからね。ゆっくりでいいんだから。本当に無理しなくていいから」

「ああ。ありがとう」


 今朝、俺が嘔吐したこともあって彼女はこんなことを言っているのだろう。要は心配してくれているということだ。


「本当に、ありがとな」

「い、いきなりどうしたの?」


 目をぱちぱちとさせて、頬を赤らめている。あまり感謝を言われることに慣れていないのだろうか?


「白河さんたちのおかげで過ごしやすくなってる。たぶん──いやきっと、これからだって何度も助けられるんだろうなって。それなら今のうちに礼を言っておいたほうがいいと思ってさ」

「べつにいいよ、そんなの。当たり前のことなんだし」

「そうかな。当たり前にはできないことだと思うけど」

「わ、わたしはね、あまりそういうのには慣れてないのよ……」

「わかってる」

「わかってるならよしなさいな」


 む、とすごんでくる白河さん。でも、そこまで怖くはなかった。


「いや、ちょっと面白いからさ」

「むう」


 なにやら不服そうだった。

 そんなとき、咲良ちゃんが食堂にやっと来たので、食事が始まった。食事中、俺がときどき白河さんのほうを見ると、俺と目が合い、眉をひそめてこちらを睨んできたことはかなり印象的だった。


 食事を終えたあと、白河さんが永井さんを呼んだ。


「今日も、部屋でお願いできる?」


 はい、承知いたしましたと永井さんは頭を伏せる。それで二人とも食堂から出ていった。なにか二人で用事でも済ませるつもりなのだろうか?


 俺も食堂を出て、だんだんと気になってきたのだ。二人がなにをしているのか。童心に帰ったみたいに、好奇心を抱いた。永井さんが関わっているから、ということもあるのだろうか?


 俺は白河さんの部屋へ向かった。部屋の前、わずかに開けられた扉。俺はそのすき間を覗いて、中の様子を見た。


「んっ……」


 女の、声。

 高揚し、触れられ、声をあげる女。それは、永井さんの姿を模していた。

 興奮し、ふしだらに絡みつき、女の肩口を舐める少女。それは、白河さんの姿を模していた。


 さらけ出された肩。

 ひどく白い肌に、一筋の紅い液体が流れゆく。

 それを少女が淫らに舌を這わせて、舐めとっていく。

 女はスカートのすそを握りしめ、顔を紅潮させ、甘い声を漏らしている。


 女の肌は少女の唾液で濡れる。

〝我慢、して……。〟

 あまりに扇情的な行為。

 他人の血を舐める……なんて考えられないことだけど、それでも俺にはある種の淫行のように思えた。


 少女の小さな舌。

 女の桜色のつややかな唇。

 少女の唾液が白い線を引く。

 女の吐息は甘く注がれ。

 少女はさらに高揚し、瞳の奥がとろけていく。

 

 俺はそれに対して、欲情したのだ。


〝アア──欲シイ──〟


 陰茎の猛りがおさまらない。

 唾液があふれてくる。

 はぁはぁとまるで発情した駄犬イヌのよう。


〝欲シイ──欲シイ欲シイ欲シイ──!〟


 本能が俺にそう訴えかける。


〝アマリニ──上等ナ──〟


 やめろ、それ以上は……。


〝──女ダ──〟


 少女の獲物となっている女のほう。

 俺はその女を凝視して、頭のなかで俺に組み伏せられ、俺によって乱サレル姿ヲ想像していた。


 蝶の羽を喰らう蟷螂かまきりとなる俺の姿が、頭のなかで映し出される。


 そこで一歩踏み出そうと──


「……ごちそうさま」


 そうつぶやく少女の声。

 食事こういは終わったのだと認識し、俺は我に返る。


 俺はその場を早々に立ち去り、部屋から遠ざかったところで駆けだした。そして俺の部屋へ逃げ込み、扉を強く閉める。


「ハァ──ハァ──」


 いったい、俺は、なにを?


「俺は、なにを考えていたんだ……?」


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