新たな始まり
「過去」と「未来」
星が消えたあの日から──。
夜だった。
静かな夜だったのだ。
こんなにも静かな夜があるなんて、と僕は心の奥からこみあげてくる感動を噛み締めていた。
僕の頭上よりも遥か上の場所で輝いている星々は、ある時はエメラルドのようにも見えたし、あるときはダイヤモンドのようにも見えた。
「日本の空は、こんなにも奇麗なのか」
ついには声を出してその絶景を認めてしまった。やすらぎが訪れたかのように思えた。
並木町。日本にある一つの地方都市であり、日本で唯一の僕のエリアだ。
上司から僕はこのエリアを巡回するように言われている。もちろんその仕事はちゃんとこなしていたが、一時期、僕は日本に来れなかった。
狩り、というのは実につまらないものだ。しかし、同時にこの仕事を誇りに思っている──いや、正確には、この仕事に没頭しているときの自分が大好きなのだ。
自信を持て、とあの人に言われて、僕はそれ以降努力した。が、結果として成功したのか失敗したのか、そんな曖昧なものになってしまった。
ナルシスト狩人。それが僕の異名。なんとも不名誉な、と僕は
「さて。僕がいない間になにかあったりしたかなあ」
仕事が増えるのは嫌だが、その仕事で自分が活躍できるのならば大歓迎。どんどんこい、カモンカモンといった気分だ。
ただいま深夜零時。
残るは街のほう。
そこの巡回を終えたなら、僕は一旦ホテルで休んでから、組織のほうへ帰らねばならない。息が絶え絶えになりそうなくらいに詰まりすぎたスケジュール。それを僕は毎日、どろどろと溶けていくアイスのようにじわじわとこなしている。
やっぱり偉いよな、僕は。うん、どう考えても。
そうやって自分に酔いながら歩いていると、通りがかった路地裏で唸り声が聞こえた。怪物のような唸り声……のようにも聞こえるし、ただ単に飢えた人間のものであるようにも思える。
さて。早速仕事かもしれないな、と僕はにやりと自然と唇がつり上がってしまった。
僕は堂々と路地裏を踏みしめ、靴の乾いた音がせっかくの静寂にひびを入れた。
「もしもーし。誰かいますかー」
角を曲がるところで、僕は頭を出して声を出す。ただ虚しく僕の声が響くだけ。足音が鳴ってからはあの唸り声はなくなっていた。もしかしたら──これは〝黒〟なのかもしれない。
僕はその瞬間に胸を躍らせていた。
角を曲がり、すっくりペースをゆっくりにしながら歩いた。相変わらず靴の乾いた音だけが聞こえてくる。
唸り声はなし。
咀嚼音もなし。
何か肉をちぎるような生々しい音もなし。
とくれば──いや、まだ油断はしないように。
そのまま僕は歩いていき、少し広い場所へと出た。月明かりの照らすところにあるからか、少しだけ明るく見やすい。
その場でまた星を眺めよう、なんて思っていたが、今は仕事中なのだ。まだ油断しては──。
「っと、危ないな」
後方から何者かが、何かを突き入れてきた。僕は横に避けて、その何かを見てから何者なのかを理解しようと考えた。
人間のものとは違う。いや、人間でもあるように思えたが、それ以外の者でもあるのではないか、という曖昧さがあった。
「……拳?」
結局、人間の拳だった。固く握りしめられていた拳が、今、僕の目の前にあるのだ。
「……あんた、誰だ」ささやき声だ。声は若い。おそらく十代くらいだろう。僕は少しため息をついて、「警察です。って言ったら満足かい?」
「ふざけないでくれ」彼は憎々しげにつぶやいた。「いいから。あんたはいったい誰なんだ。答えによっては──」
「殺す? やめてくれよ。命だけは勘弁してくれ。この命だけは、どうしても大切にしておきたい」
「……なら、答えてくれ」
ふむ、と僕は鼻を鳴らして、「しがない、通りすがりの狩人だよ」と答えた。
*
「……苦い」
「そう? まあ、そこらへんはやっぱりガキなんだな、君」
「……」
「まあまあ。そう睨みつけないでくれよ。──もしかして、惚れたのか? この僕に?」
「ふざけるな」
あのとき、彼は僕の言葉を何度も脳に刻みこもうとしたかのようにつぶやいた。それで彼は力尽きたように倒れたのだ。それから一時間たって、ようやく彼は目覚めたのだ。
ところで。
僕は寝てしまったぼろぼろの少年を近くの公園のベンチまで運んできたわけだが、彼の顔はどうもあの根暗な武術家に似ているような気がした。
今頃どうしてるんだろうなー、あのひと。
それで僕が何か飲み物を買ってこようと提案し、缶コーヒーを二本買って、その一つを彼にゆずった。
「にしても」しばらくの沈黙のあと、僕はそう言って話を切り出した。「なんで君はそんな状態なんだ?」
「──関係ないだろ」
「君のためにコーヒーを買ってやった以上、わずかな関係はあると僕は思うよ」
そう言うと、少年は「ちっ」と舌打ちしてから、「逃げてきたんだ」と素直に答えてくれた。
しかし、何から逃げてきたんだろう。やはり親からだろうか。実際、僕は親から逃げてきたの、と訊ねてみた。
すると少年はふっ、と鼻で笑って「そうかもしれない」と何かを悟ったかのように答えた。
「面白そうだ。少し聞かせてくれないかい」
「なんであんたなんかに」
少年はそれはもう面倒そうに眉をひそめた。
「いいじゃないか。コーヒーを買ってやったうえに君は僕に──」
「ああもうっ。わかった。わかったから」と鬱陶しそうに僕の顔の前で片手をふった。
冷たい風が、僕の頬の肌にちくりと刺さる。そのとき、すうっ、と息を吸って、さも寒そうに両腕をさすった。
「俺が悪かったんだ」
「というと?」
「俺は……守るべき大切なひとを……愛すべき最愛のひとを……暗闇に置き去りにして逃げたんだ」
「恋人をふったのか?」と僕は首を傾げて訊ねた。すると彼は目を丸くさせて、「──はは。そんな軽いものじゃないんだけどな」と光を失った瞳で答えた。
少年は小さく息を吸って、吐いた。少しずつ溜まってきたものを吐き出しているように思えた。それは、後悔とか、罪悪感とか。そんなもの。
「アカコは──」
アカコ。たぶん、それが彼の想い人の名なのだろう。
「怪物になったままで。きっともう、戻れない」
そこまで言うと、少年は唇を噛みしめた。あまりに強い力で噛んでいたからか、そこから血があふれてくるのがわかった。
同時に彼は、眼球から涙があふれてきたらしく、その涙が筋を作って頬を伝っていった。
「怪物、というのは比喩かい?」
「……いや」彼はそこで嗚咽を洩らして、言葉を切る。「あいつは──正真正銘の怪物になったんだ」
僕は目をつむって、彼に問いを投げかけた。
「……後悔しているんだろう」
「ああ」
「……逃げたくなくても、逃げてしまった」
「ああ」
「……でも、戻るのが怖い」
「ああ」
それなら、と僕は瞼を開ける。
ああ──やはりこの少年には素質がある。
「君は──狩人という仕事を知ってるかい」
僕はベンチから立ち上がり言った。
「狩人?」
少年は僕を見上げてから、そう訊ねる。
「僕が、君の後悔を打ち消してみせよう」
僕は彼に手を差し伸べる。
「僕は、ナルシストって言われているんだがね。──でももう一つ、異名がある」
僕は口角をつりあげて、言った。
「〝自虐〟の狩人。まあ、
ふと空を見上げる。さきほどまで奇麗に輝いていた空は、いつの間にか雲に覆い隠されてしまった。
そして──星はぱったりと消えてしまった。
〝紅物語 零 ~灰色の狩人~ に
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