第24話

 俺たちは、体を重ね合った。泣かせはしない、とかぬかしていたけれど、結局咲良は最後のところで泣いてしまった。でも本人曰く『すごく幸せだから』とのこと。

 実のところ、俺も泣きそうになった。理由は咲良と同じ。あの時間が、あまりにも幸せで満ちていて、あまりにもまぶしい光で包まれていたから、思わず涙で目を濡らしてしまった。

〝私たち……泣き虫だね……?〟

 そう、甘い声でつぶやき、可愛い微笑みを浮かべながら額をくっつけてくる咲良。

〝仕方ないよ……咲良のことが、好きだから。〟

 ふふ、と笑う咲良。その笑顔が、あまりに愛おしい。そう、咲良の笑う顔は、こんなにも綺麗で、心の闇を晴らしてくれるのだ。だから俺は、こんなまぶしい笑顔を、みんなにも見せたい。

 ふと、俺は〝人間〟として、咲良といっしょに過ごしたいと思ってしまった。それは、彗星のようだった。

「──咲良」

「ん?」

「一つ、訂正しておきたいことがあるんだ」

「なあに?」

「……人間に戻りたい、そんなふうに思ったのは、これで二回目だってこと」

「えっ?」

「人間になって、君といっしょに暮らしたい」

 あまりに、わがままな願いだろうか。

 あまりに、わがままな望みだろうか。

「……いいの?」

 咲良は訊いてきた。

 もし叶うなら、と俺は口にした。すると彼女は俺の胸に手をそえ、瞼をつぶる。

「たっくんも、目をつぶってて」

 言われたとおりに、俺は瞼を閉じて、視界をゼロにした。目の前が暗い。今のところ、違和感などはない。

 しかし、そのうち胸のなかが少し痛んできた。なにかを無理やり剥がしているような、そんな感覚だった。それが数十秒ほど続いたあとで、ピースがぴたりとハマったように、すっきりした。

「これ、なにやったんだ?」

「……鬼の部分を消して、それから心臓の傷自体を消したって感じかな……」

「化け物だな」

「む。これでも私、人間なんですけど」

 はは、と笑いあう。

 俺は目を開け、となりにある彼女の顔を見た。すると、「ねえ」と言ってきた。「なに?」と訊くと、咲良は、「キスして?」と言ってきた。

 今までこうして、彼女と触れ合ってきて、だんだんとわかってきたことがある。

 意外と咲良は恋愛には積極的だ。そして付き合ったあとも、こうして積極的にアピールしてくる。

 まあ──好きだろ、と言われれば好きなのだが。

 俺は「何回目だよ」と若干文句を言いながらも、咲良とキスをする。ただの唇の重ね合いかと思ったが、咲良は舌を絡めてきた。俺もそれに応じるが、俺の口内に何か小さな固体が入り込んだ。思わずそれをぐっと飲み込んでしまった。

「……口移し」

「は……?」

「──ありがとう。私、たっくんのこと愛しているからね」

 それは、今までに言われたことのない言葉。十分に嬉しいことだが、今入れてきたものはいったい──あれ、急に眠くなってきたぞ。

 だ、だめだ……ここで眠ってしまったら、咲良が……。

 ちゅ、と俺の額にキスをする咲良。

「だめ、だ──行、くな……さく、ら……」

 俺は最後の力を振り絞って、咲良のほうへ手を伸ばす。だが、そこで俺の意識は暗闇へと落ちていってしまった。


* * *


「眠ってくれたかな」

 口移しで彼のなかに睡眠薬を投与した。なぜ私がこんなものを持っているのか、それは兄が「もし眠っていなかったら、口移しでこれを奴に」と言って渡してくれたからだ。

 ごめんね、と一回つぶやきながら彼のやわらかい黒髪を撫でる。一分ほどそうしたあと、私はベッドから立ち上がる。

 床にちらばった自分の下着と服を着る。

 そして私は彼の部屋をあとにした。

 彼を死なせたくはない、と私は思ったのだ。彼の身体はもう人間。とても戦ってもいいような状態じゃない。

 それに、お兄さまとの関係は、私自身が断ち切らなければならないと思ったのだ。

 私は廊下を歩き、ロビーに出る。大階段を上がって、西館へ行き、兄の部屋へ。

 部屋の扉の前まで来て、こんこん、とノックをした。返事はない。それは誰がノックをしているのか、もうすでに分かっているということなのだろう。

 扉を開け、そのすき間から顔を出してきた兄が、「やあ、咲良」と手を上げて挨拶をしてくる。

「お兄さま、お話があります」

「……へえ。その調子だと、あいつは殺せなかったみたいだね。まあいいよ。話は聞いてあげよう」

 その代わり、と兄は続けた。

「場所を変えようか。少し外でいい空気でも吸いながら、その大事な話とやらをしよう」

 そう言って部屋から出てくる兄。私の前に来て、廊下を歩いていった。私もその兄の背中を追う。

 ロビーに出て、階段を降り、玄関を通る。

 玄関を開けた瞬間、強い風が入ってきて、それが全身に当たった。兄はそんなことは気にせず、私よりずっと先で歩いていってしまっている。私は少し走って、兄へ追いつこうとする。

「さあ、この辺りでいいだろう」

 そこは、花壇が多く存在し、多種多様な花が植えられている場所だった。きっと春になれば、色鮮やかな場所となるだろう。

 同時にその場所は見覚えがあった。

 むかしの記憶──幼少時代に刻みつけられたもので、ここは私にとって大切な場所。

 そこは──ガーデン。たっくんとの思い出がつまった場所。

「懐かしいだろう?」

「はい。とても」

「は、気の利かない返事だ。──それで、大事な話というのはなんだい」

 私は一呼吸おいてから、兄の目を見つめて言った。

「もう、あんな関係は断ち切りましょう」

 はっきりと、この空にさえ届くくらいの声で。

「……やはり、直接言われると心にくるものがあるな」兄はそんなことをため息交じりに言った。「……なんでだい。僕はせっかく君を助けてやったんだぞ。それに対する感謝もないのかい」

 兄は、こんなことを言っているけれど、この人は悪い人じゃない。だって、セリフは最低だし、吐き気がするものだけれど──彼の顔は、そのセリフを発するたびに苦しそうなものになるのだ。

「いえ、感謝しています。お兄さまが私を助けてくれたことは、忘れもしません」

「…………」

 兄は黙っている。

「あんなことがあったあと、私には居場所がありませんでした。でもその居場所を作ってくれたのは、お兄さまだと思います。痛くて、むなしい場所だったけれど、それでも私の居場所には違いなかった」

 兄は下唇を噛みしめている。

「……でも、やっと見つけたんです。私が、心の底から笑っていられる場所というものを」

「それが──彼なのかい」

 目を伏せて、兄はそう訊ねてきた。私は「そうです」とただ淡々と返事した。

「そうか……そうか……は、ははははは!」

 怒る、悲しむ、そういった感情を予想していたのに、なんと兄は大笑いをしていた。感情が読み取れない。嬉しいわけではないはずだし、かと言って怒っていたり悲しんでいたりするとき、こうして笑うものなのだろうか?

「証明したってわけなのかよ……! なんだよ……なんだよ、それ……ああ、真堂隆之。認めてやるぜ、お前は──ヒーローだ」

 そんなことを、泣きそうな顔でつぶやいていた。

 笑ったあとに、泣きそうな顔になる。

 本当に、わからない。

 兄の感情が、読み取れない。

 そのあと、兄の唇が動く。声は聞こえなかったが、おそらく兄は「ありがとう」とつぶやいていた。

 ますますわからなくなってきた。

「……はあ……」

 兄がそうして、一人で暴走したのち。彼は大きなため息を吐いて、私に視線を移した。その口元は歪んでいて、瞼も半開きで、光さえないその瞳で私を見ていたのだ。

「なら、もういいよ。咲良、君はもういらない」

「…………」

「へえ。怯えないんだ。本当に強くなったね……ますますイラつくよ」

「──なら。私からも言ってもらいますね」

「うん? なんだい、言ってみてごらんよ」

「お兄さまが私に触れるたび、弱々しくなっていくのを見ていました。だから、その……ごめんなさい」

 私は腰を曲げて、頭を下げた。

 ずっとだった。ずっと彼は、ひそかに泣いていたのだ。私を傷つけることも嫌で、かと言って自分の衝動を抑えきれなくて。

 でも、彼は一つだけ──私にしなかったことがある。

 彼は吸血鬼でありながら、人間である私の血を吸わなかったことだ。

 ときどき、兄の目が血走って、最初からすごく息が荒いときがあった。それはおそらく、〝吸血衝動〟なのだろう。

 でも彼は、その度に私から離れて、自分の腕を噛みつき、そこから血を吸っていた。自分の血で満たされるはずはないのに、ずっとそうしていた。

 私が心配になって近づこうとすると兄は、「近づくなっ!」と声をあげていた。

「なんで……」

 彼は顔を伏せていた。拳で自分の足のもも辺りを殴っていた。体を震わせながら。

 そして兄は顔をあげ、目を大きく見開かせて、私を見た。

「歯止めはきかないぞ……咲良」

 きっと、これから彼は私を殺すのだろう。

 それはもう目に見えていることだ。


「咲良、諦めが早すぎよ」


 後方から声が聞こえる。

 後ろを振り向くと、そこには──、

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