第23話


 咲良は部屋に戻ってから、十分ほど経ったころ。突然の来客に肩をびくりとさせ、強引に扉を開けてきた白河宗次郎の目を見て、顔が真っ青になった。

 それは、ようやく鮮やかなまでに浮き彫りになった暴虐の精神。加虐への欲求そのものだった。

 そして咲良のもとまで近づき、宗次郎は彼女の身体に多くの傷を残した。

 それはニ十分のあいだのことであった。

 最後、宗次郎は咲良の耳元でつぶやく。

「真堂隆之を信じるな……きっと裏切るぞ」

 洗脳だった。

 その洗脳はとくに力の入ったもので、咲良に薬物を投与したあとで、その言葉をつぶやいていたのだ。

「真堂隆之は──お前に多くの傷を残す。お前を幸せにすることなど、お前を救うことなど、あいつはそんなことをやるつもりなんてない」

 そんなやつに自分をゆだねてもいいのか? という言葉。

 咲良は抗えぬ状態にあった。

 もうすでに咲良の意識は、その言葉によって支配されている。体の自由だって、すでに奪われてしまっているのだ。

「じゃあ、そんなやつはどうする? 自分を傷つけるやつは、自分を裏切るやつは、どうするって?」

 咲良はつぶやく。

〝ころさなくちゃ。〟

「そうだ、いい子だな」

 咲良はベッドから立ち上がり、部屋から出る。からくり人形のように、ぎこちない歩き方で真堂隆之の部屋へ向かう。

 廊下を歩く。

 ただ咲良のなかにある意識は、『真堂隆之をころさなくちゃいけない』という使命。

 彼女のなかにある、兄に対する絶望がそうさせたのだ。

 真堂の部屋の前。扉をゆっくりと開ける。

 そこで真堂は寝息を立てていた。

 咲良の脳裏に、ある一つの場面がよぎる。それは、彼女の父である白河宗助を殺したこと。あのときの場面と重なるのだ。

 咲良は、一歩近づいた。

 また一つ。咲良にとって大切な記憶がよぎる。それは彼と過ごした幼少時代。

 咲良は、一歩近づいた。

 一つの記憶が、咲良の動きを一瞬だけ止めた。それは、真堂と咲良の結婚の約束。

 咲良は再び動く。

 一つの記憶が、蘇っていく。それは、真堂隆之が白河邸に越してきたことだ。しかしそれは、彼女の姉である白河紅子との婚約のためだったことを知り、残念だったこと。

 咲良は真堂の眠っているベッドの前まで来る。

 記憶があふれてくる。

 真堂が、咲良を後ろから抱きしめ、全力の告白をしたこと。真堂が咲良を、外へ連れていってくれたこと。

 咲良は真堂にまたがる。つまり馬乗りだ。

 そして、真堂の首に両手を添えて──あとは力を込めるだけ。


『だからそのために背中を押してやる。もし、君の贖罪を邪魔する奴がいたら、君を嘲笑う奴がいたら、俺はそいつをぶん殴ってやる。

だから──』


 力を、込めればいい。

 それだけのこと。

 たった、それだけのことなのだ。


『だから──君のなかに潜んでいる〝自分てき〟をぶっ倒してやろうぜ!』


 ……できない。


「……できない……こんなこと、できるわけがないよっ……!」


 咲良は涙を流す。

 その涙が彼女の頬をつたい、真堂の頬へ落ちていく。

 

「──だって、だって私は……たっくんと一緒に生きたい……一緒にいたい……!」 


 真堂の首から両手を離す。それでも、何粒か涙は落ちていく。もう離れようとしたとき、咲良の手を、誰かが握っていた。


* * *


 俺は、咲良の手を握った。

 もしここで引き留めなかったら、どこか遠い場所へ行ってしまいそうだと思ったからだ。

 そして俺は上体を起こして、咲良の身体を強く抱き留めた。

「おき、てたの……?」

「ああ。すまなかった。最初から起きていたんだよ」

 はっという声が耳元で聞こえる。

「……私、最後までたっくんのこと、信じることができなかったよ……」

 まったく。

 すぐにこんなふうになるんだから、本当に放っておけない。

「でも、最後の最後で信じることはできただろ?」

 耳元でつぶやく。俺は咲良の華奢な体を抱きしめる。あと、とにかく落ち着かせるために背中を手で優しくさすった。

「私なんかで、いいの?」

 ああ、もちろんだとも。

「私は……処女じゃないよ?」

 知ってる。

「私は……ダメな女なんだよ?」

 知ってる。

「私は……あの、白河咲良なんだよ?」

 もう、知ってる。

 それよりもさ──、

「咲良との未来これからを、知りたいな」

 だから、と俺はつぶやく。

「結婚しよう」

「……っ」

 俺は、彼女の唇をふさいだ。

 やわらかい、その唇。

 もう、君を泣かせはしない。

「ん……ぅ」

 咲良は、俺と唇を重ねたまま、そのまま俺のほうへ倒れ込んだ──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る