第11話 少年は後悔を胸に抱く。

 それから一時間たって、俺はやっと思い出してしまった。

 そう、なんで俺は忘れていたんだろう。こんな、あまりに大事で、大切で──そして悲惨なことを。


 俺は、黒岩さんを殺した。この手で彼女の命をつぶしたんだ。なぜそんなことをしたのかさえわからないし、そもそもそんなことをしたもわからない。覚えていない。

 

 壁に右手をついて、体を支える。体がよろめいたからだ。

 左手で顔を覆う。


 ……どうしてだ。どうしてなんだよ?


 自身に問う。苦しまぎれな自分の声が、自分に語りかける。俺は答えない。答えたくなかった。流れ通りに答えたとしても、どんな意味があるのか。俺がそのことについてわかっていることは少ないし、理解できない部分も致命的だ。


 だから、答えられない。


 ──お前は好きと答えたんだろう?


 そうだ。彼女にそう言った。だがそれはあの状況から脱するための言い訳だ。これが最善であり、安全であるということがなぜできない?


 それと俺には──、


 ──好き、だったんだぞ。


 なに?


 ──俺自身は好きだったんだ。黒岩真奈美って女の子が、俺はすごく気になってた。


 ……そうか。



「……」


 そうだ。この気持ちは、間違いなく本物だった。

 でも俺は、彼女を殺した。あのとき、何かが外れて俺は行動した。明確な殺意を胸に抱いて、それを拳に流して、黒岩真奈美という命を絶った。


 いつもなら切り替えていた俺だ。

 親父に、「失敗したのなら仕方ねえ。だがそれも一歩なんだ。石ころにつまづいたのかもしれねえが、それでも前には進めてる。だから、笑って切り替えろ! 男は切り替えが肝心だ!」と、小さいころから言われてきたというのに。


 俺のせいで亡くなってしまった黒岩さんに背を向けることなど、俺は到底できない。


「……俺は、涙一つ流せねえのか」


 未だに実感が湧かない。

 しかし今となっては、少しずつ何か熱いものがこみ上げてくるのがわかる。胸が熱いのだ。心臓を火であぶられているんじゃないかと思うぐらい、熱いのだ。


「……あれ、なんだ。そうでもなかったじゃないか」


 まぶたの奥が熱くなって、やがて瞳が涙で濡れる。

 視界が、揺れる。

 現実が現実じゃないみたいだ。

 まだ瞼の奥は熱いまま。

 このまま流さないと、この熱は下がらないみたいだ。


 そして俺はこぼれ出た涙が頬の筋を作って、伝っていくのを感じた。


「……っ、くそ……!」


 知らなかった。俺はこんなにも涙脆かった。俺がこんなにも弱い人間で、最低な人間であることを。何もかも初めて知ることで、それを全てすぐに受け入れることなどできない。相談にするにしろ、こんなことを相談できるわけがない。


 だから──これは俺一人の問題だ。


 努力して、受け入れるしかない。

 彼女の人生を、せめて見捨てないようにしないと。

 殺人者として、俺は更生しなければいけない。


「泣いているの?」

「えっ?」


 後ろから声をかけられて、俺は後方へ目を向ける。視界に映ったのは、寝間着に着替えた白河紅子だった。


「あ、ああ。白河さ──」

「紅子でいいよ。わたしだってタカユキって呼んでいるんだし」


 俺は壁から手を離して、その手で未だに流れ出る涙を拭く。


「わかったよ。ごめんな、紅子」

「ううん……でも、なんで泣いてたの?」

 

 俺は紅子のほうへ振り向く。


「泣いてないよ」

「でも目、赤い。それに震えてる」


 そう言われて、たしかに小刻みに震えていた指先に気づく。俺は両手を強く握り、拳を作った。少し伸びた爪が手のひらに食い込んでいたが、不思議と痛くはなかった。


 一方、紅子は両手を胸において、心配そうにしている。こちらに、歩み寄ろうしている。


「……大丈夫だ」

「さっきのこと、なの?」

「……」


 俺は黙った。


「さっきの、あの女の子とは知り合いだったの?」

「……そうだ」


 結局、俺は話すことにした。

 紅子も関連しているのはわかっていた。あの紅子が黒岩さんを殺そうとしているところだって見た。気になることは色々とあるが、彼女の容態を考えて、あの場で聞くわけにはいかなかった。


 でも、今なら聞けるはずだ。


「あの子とは、学校で知り合った。簡単に言えば気になっていたんだ、あの子のこと」

「……!」


 それを知って、驚いたかのように口に手を添えて、大きく目を見開いた。


「それで今日、あの子が失踪したことを知ったよ。そして放課後。帰っている途中に意識を失った。たぶん、誰かにやられたんだと思う。そしたら地下室にいて、あの場には多くの死体があった」


 俺は目を伏せて、床を見つめていた。

 おそらく彼女は何もかもが衝撃のことで、驚いているだろう。


「その死体が起き上がったんだ、まるで生き返ったみたいに……。そいつらは俺に襲いかかってきて、それで──まあ、なんとか通気口から逃げたんだ。そしたらあの倉庫に着いて、黒岩さんに会った」


 悲しみが、じわじわと心に広がる。


「黒岩さんが俺を閉じ込めたんだと思う。それに関しては俺は理解できなかった。──でもあいつは、俺のことを好きだと言った。それを聞いて、あいつへの苛立ちが消えたんだ。どうして俺は気づけなかったんだって、好いているなら気づくべきだろって、自分にイライラしたんだ」

 

 それからのことは彼女がよく知っているだろう。

 俺はずっと目を伏せたまま。また、瞼の奥に熱がこもったからだ。


「……!」

「えっ……?」


 俺の身体に、暖かいものが包み込んでくれた。胸が熱くなる、のではなく、胸があたたかくなったのだ。心地いい温度だ。


「……ごめんなさい」


 耳元で鳴ったのは、風鈴のような声だった。

 俺が無意識に焦がれていた、やさしい音。

 あまりのそのやさしさに、俺の瞼に一人の幼い少女が映った。


「わたしの、せいだ」


 俺が怪我をして、あの幼い少女は泣いていた。ずっと、ずっと。延々と泣いていた。どれだけあやしても、背中を撫でてても、大きな声をあげて泣き続ける少女。


 俺を抱きしめる紅子は、肩をひくひくと震わせて、嗚咽をもらしている。少し成長したからだろう。あの時のように大きな声をあげて、泣いてはいなかった。でも、あの時以上にこの人は──俺のことを、心配している。

 それに、あのときに俺を助けてくれたのは……紛れもない、この人だ。


「ごめんなさい。わたし、あなたの大切なひとを──殺してしまった」

「いいや、違うよ。俺が殺したんだ」


 本当に、女々しい。

 心配されて助けられただけにとどまらず、この子は俺を抱きしめて、泣いて、謝ってくれている。


「違う……! だからタカユキが責任を感じる必要はない! タカユキはただ、ただ……わたしの理不尽に巻き込まれただけで……」


 ならば、せめて。

 俺も抱き返すべきだ。


 泣いている。さきほどの俺と同じように。だから抱きしめて、頭を撫でよう。


「俺のほうこそ、ごめんな」


 柔らかい黒髪を、右手で撫でた。


「……ぇ」


 声にもならない声が、耳に入る。

 これぐらい距離が近くなければ聞こえないほどのものだ。


「紅子は心配してくれたんだろう? なら俺からも言うよ」

「……たか、ゆき?」

「紅子が責任を感じる必要は、ないんだよ。こんな些細な言葉で君は変わらないかもしれないけど、少なくとも俺は、君に罪はないと思う」


 嗚咽の声は少しずつ大きくなっていく。そのたびには俺は強く抱きしめた。また、俺は罪悪感を感じた。抱きしめる腕の力が、強くなったり弱くなったりもする。


「そして、もう一つ」


 そのときだけ、俺は紅子をしっかりと抱きしめた。


「俺を助けてくれて、ありがとう。俺を心配してくれて、ありがとう。──俺を抱きしめてくれて、あたためてくれて、ありがとう」


 それが限界だったのか。紅子はとうとう大きく声をあげて、泣いてしまった。数人、紅子の鳴き声を聞いてやってきた使用人は、俺たちの様子を見てからすぐに「あらま」と言わんばかりに帰っていった。


 それからあとは十分ほど抱きしめ合ったままでいた。ずっと泣いていたからだ。実際はそれほど苦ではなかった。お互いを慰めて、お互いはあたたかみを感じた。抱きしめ合うという行為は、必要以上に俺をあたためてくれた。


 今はそれで十分。

 他には何もいらない。


 紅子の正体なんてものも、今はまだ、知る必要はないだろう。


* * *


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る