第4話 少年は少女の影を踏み歩く。

    二章 監禁


「はぁ……」


 吐き気がする。

 目覚めて数秒で思わず嘔吐しかけるとは思わなかった。やはり環境が変わると体調を崩してしまうものらしい。しかし珍しいな。どんなに環境が変わろうと、一度も体調なんて崩したことはなかったのだけれど。まあ、変わったとしても普通の一軒家から山のキャンプ場に移ったレベルだが。


「やっべ……まただ」


 エビのように腰を曲げて、俺は口を両手で強く抑える。視界はかき混ぜられたミルクコーヒーみたいに歪に揺れている。

 一つの強い衝動のようにせり上がる胃液が鬱陶しくて、俺は苛立っていた。


「おはようございま──た、隆之さま!?」


 おそらく起こしにきたであろうメイドの永井さんは俺のもとへ駆け寄り、背中をさすってくれている。そうしてくれるうち、吐き気はすっかり治まった。


「ハァ……あ、ありがとうございます。永井さん」

「いったいどうしたんですか……?」


 心配そうに眉をひそめて俺を見る永井さん。


「わかんないですね。あまりないことですから」


 俺が吐き気を催すことなんて滅多にないのは事実である。今まで風邪すらひいたことすらないし、怪我をしたにせよ、その次の日にはもう傷口はふさがっていた。


「そう、ですか……」

「あ、でも病院は大丈夫ですよ」


 俺は片手を左右に振って、そう言った。


「なら学校はどうします? お休みになられたほうがいいのでは?」

「まあ、できればそうしたい気持ちはあるけど大丈夫ですよ」

「なら、せめて少し体を休ませてから行くべきです」

「……」


 弱々しい瞳はやがて何か決心したかのような、確固たる意志を示したような瞳になり、その瞳で俺を見つめてきた。


「じゃあ……そうしましょう。少し体がだるくてたまりません」

「そ、そうですか……!」


 永井さんは堅かった表情をほころばせて、喜んでいる。

 ああ──きっと、人を素直に思いやることができる人なんだな、と尊敬した。


「では、私のほうからすぐに学校のほうにご連絡いたしますので、隆之さまはそのままお体を休めてくださいませ」


 お辞儀をして、部屋を出る。

 足音が鳴る間の間隔がせまかったことから、早歩きだということがわかった。それで俺はなにも早歩きじゃなくてもよかろうに、とくすりと笑った。


「しかし……」


 どうしたものか。実のところ、吐き気は完璧に治まっている。だから今から登校してきても大丈夫ではあると思う。だが、この屋敷に来て早々心配させるようなことは真似はしたくなかった。いくら俺の婿入りの件によって、同じ屋根の下で暮らすことになっても、それなりの礼儀というものは必要だろう。


 親父からも「くれぐれも、礼儀を忘れずにな」と一昨日言われたばかりだ。その言いつけを破るわけにもいかんだろう。


「ヒマだな」


 そういえば、学校に登校するのはいつごろだろうか。

 まあそれもおそらく永井さんがあとで連絡してくれるだろう。


「タカユキ、大丈夫?」

「ああ、白河さん」


 閉じられていた扉が開き、その隙間からひょっこり顔を出している少女。赤い柄の着物の少女はじっと俺を見つめていた。


「まあ大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

「それはいいんだけどさ。その……呼び方……」

「ん?」

「いや、なんでもない」


 白河さんはこちらに寄って、俺の前に立った。 


「なんかすごい永井さんが慌ててたよ?」

「やっぱり?」


 くすりと笑いながら俺はそう言った。


「まあ、永井さんって思いやりある人だからね。わたしもそういうところ良いなって思う」


 まったく同意である。

 しかし、白河さんは学校に行かなくていいのだろうか。だいたい普通の高校はもう始まる時間なのだが。


「白河さんは学校行かないの?」

「今日は休みなんだ。らっきー!」


 と言って右手でピースの形を作り、見せつけてくる。

 こうしていると、やっぱり話しやすいなと思う。まあ──いささか性格が明るく、気さくなため、お嬢様というよりクラスにいる中心人物のように思えるのは、仕方ないとして。


「しかし、なんで休みなんだ?」

「創立記念日なのよ」

「そうなんだ」


 創立記念日らしい。

 どうやら休日であることに多いに歓喜しているらしい。すでに両手でピースしている。


「まあ、それはそれとして。どうして体調が悪くなったりしたの?」


 なにやら真剣な眼差しを俺に向けてきた。意外と目が鋭いものだから、油断すればいとも簡単に心を撃ち抜かれるのではないのか、と思わせるほどの迫力と危うさがある。


 きっと敵に回せば自分にとって不利にしかなりえない、と視線という刃で刻み込まれたみたいだった。


「それがわからないんだけどね。まあ、さしづめ環境が大きく変わったことによるものだろうとは思うけど」

「そう、じゃあ……夢は見た?」

「……」


 そう言われて、心臓がどくんと大きく高鳴った。

 喉までせり上がった言葉という言葉が凍りついたようにも思えた。


 どうやら、自分が見た夢がどんなものだったのかを全身が覚えていたらしい。


「見た……と思う。けどそれがどうしたん──」

「どんな、夢だった?」


 魔眼みたいだ。少女はさらに顔を近づけてきた。

 俺は操られっぱなりの出来損ないの人形らしい。


「死体が活きてて……それが俺に襲いかかってきたんだ。途中で風鈴みたいな笑い声が聞こえて、それで──」

「それで?」

「迎えにいくからね、と言われた」


 まずい、と言わんばかりに唇をかみしめる少女。

 

「待って。あなた、襲われたときどう対処したの?」

「それは───もちろん」

「?」

「殺したんだ」

「───」


 女の目は瞼を大きく開けて、いかにも驚いたというふうに俺を見つめた。しばらくそのまま沈黙して、体は微動だにせず、ただ俺の目の前で立ち尽くしていた。


「そう。予想外ね」

「……」


 不思議と今の言葉に疑念を抱くことはなかった。だから質問することをしなかった。おかしいな、普通ならここで俺は疑問を浮かべることだろうに。


「そっか。じゃあお大事にね」

「ぇ……え?」


 そのときにはもう俺の部屋に白河さんはいなかった。いつの間に……と俺はつぶやいた。いつごろいなくなったのだろう。長い間、話していた気もするが、きっと気のせいだろう。


「隆之さま」

「ああ、永井さん。あの俺、何時ごろ登校すればいいですかね」

「いえ、先生方は『体調不良が治り次第、気をつけながら登校してください』とおっしゃっておりました」

「そうですか。手間かけさせて、すみません……」

「いえ、これがわたしの役目でもありますので」


 いつも通りの永井さんに戻って、いつも通りのお辞儀をして、去っていった。やはり、コロコロと表情が変わる永井さんを見て思うのが、不思議だ、ということだった。


1、なぜ、不思議だと思うのだろう? (永井ルート)

2、まあ、そんなことはいいか。


 まあ、そんなことはどうでもいいだろう。


「フム……」


 三十分ぐらいここで休んでから登校するとしよう。


 * * *



「おお、おはよう隆之ー!」

「おはよう、中村」


 ちょうど一時間目の終わりごろ。すでに授業の合間の休憩時間になったようだった。まあ、この時間を俺は狙っていたわけだが。


 それで教室入ると、すぐ目の前にいた中村がこっちに振り向いてぱーっと笑顔を浮かべた。


「おいおいどうしたんだよ? 遅刻とか珍しくね?」


 中村と一緒にしゃべっていた田中が言う。


「朝から吐きそうになってさ。ほんっと大変だったよ」

「あらそりゃ災難だこと」


 田中が指で顎をさすりながら、そう言った。中村に関してはなにやら眉をひそめて、目を細めている。こちらを心配しているのだろうか。


「でも、すっかり治ったよ。薬も飲んできたし、少なくとも学校にいる間は吐き気を催すことはないだろうって」

「へえ、よかったじゃん」


 またしても返事したのは田中のみだった。中村はなかなかその表情を崩してはくれないらしい。


「だから大丈夫だって、中村」

「まあ、それならいいんだけどよ。でも無理すんな」


 と、中村は俺の肩に手を置いた。


「わかってるって。それより次の授業ってなんだっけ」

「家庭科。被服室に集合だって」

「おっと。じゃあ早くしなくちゃな」


 そんなふうにいつも通りの日常会話をして、家庭科のテキストと専用のノートを持って中村、田中と共に被服室へ向かった。


 その道中。


「なあ知ってるか? うちの生徒がまた行方不明になったこと」

「え?」


 田中からそう言われ、俺は田中と視線を合わせる。


「昨日いなくなったらしいんだけど、そいつの名前がさ──」

「やめろ、田中」


 中村は前を向いたまま、田中にそう注意した。笑っているようには見えない。どうやら本気で田中のことを注意しているらしい。しかし何を──? 


「え、いやなんでだよ?」

「……」


 中村は田中に耳打ちしている。俺に聞こえないようにしているのか。


「え、マジで?」


 田中が少し身を引いて言った。中村も「マジだよ」と少し強気に言った。すると田中は申し訳なさそうに頭をかいて、


「悪い、今のは忘れてくれ」


 俺に聞かれては本当にまずい情報だったのかは知らないが、忘れてほしいらしい。多少気になりはするけども、知らない方が幸せのときもあると母も言っていたし、忘れるべきだろう。



 * * *


 昼休みになり、俺は昼食をとることにした。


「さて、どうするか……」


 永井さんからもらった弁当箱がある。ありがたいことにわざわざ作ってくれたわけだ。だから食堂で財布のなかにある、俺のわずかな財産が消費されることはない。


 ただ……、


「なあ真堂、重箱ってなんだよ重箱って」


 まさか重箱だとは思わなかった……。

 たかが一般男子学生の昼食に重箱が現れるなんて怪奇現象、俺は信じないと思っていたのに。


 だが、せっかく作ってくれたわけだし「いらない」と言うのはあまりにひどい話だ。まあ、次から重箱にしなくていいと家に帰ってから言えばいいだけだ。とにかく、時間がなくなるまでに食べなきゃならない。


 ん、いや待てよ──。


 俺、誰かと約束してた気がするんだけど……。


「悪い、隆之。オレ、あの連中と食堂行ってくるからさ」

「え。あ、ああ。別いいよ」

「ほんと悪いな」


 そう言って中村はその連中と食堂へ向かった。


「あ、そういえば」


 黒岩と約束していた。

 帰り道の途中だった。


『明日、一緒にお昼ごはん食べない? できれば、その……お弁当で』


 そして承諾すると、嬉しそうに『そっちの教室行くからー!』と別れていったのだが、廊下を見てみても、まだ来ていないことがわかる。


 ここは──俺が迎えにいったほうがいいのだろう。


 俺は重箱を持って二年一組へと向かった。

 いざそのクラスにたどり着くと、教室内はなかなか人が多い。しかしすぐに黒岩を見つけることはできるはずなのだが──いない?


「ごめん、黒岩さんいないかな」


 扉の近くにいた女子に話しかける。


「え? いや、いないよ?」

「そう……休みなのかな?」

「そうみたいだね」


 俺が「そうか」と口にすると、その女子は付け加えるように言った。


「まあ……噂では失踪したらしいけどねえ。あ、もしかして……知らなかった?」

「は?」

「昨日の夕方からいないんだって。警察も捜してるらしいけど、見つからないみたい」

「でもそれが黒岩さんとは限らないだろ?」

「それがね、道端で真奈美ちゃんの電話が見つかったらしくてさ」


 何かの、冗談なんじゃないかと思った。

 悪夢なんじゃないか、悪夢なのであれば今すぐに目覚めろと自分に言い聞かせる。でも、夢じゃないみたいだ。俺が今、目にしている現実はたしかなもの。この意識だって、たしかに覚醒してる。


 本物、なんだ。

 偽物なんかじゃない。


 間違いなく、俺は──真堂隆之は現実という地獄にいるのだ。

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