第3話 少年は桜の香りを懐かしむ。
「いやでもさ……いつまで待てばいいんだよ」
永井さんからこの部屋で待て、と指示された。どうやら、白河のお嬢様は帰ってきていないらしい。
俺が帰ってきたのが五時半ごろ。それから一時間半が経過して、七時になっている。──まあ、白河家の次期当主なわけだし。忙しいことはもちろん承知なんだけど……いや、待てよ。もしかしてこのまま俺が婿入りしたら、俺も当主の夫としての仕事をいくつも課せられるのではないか。
避けられない運命、というやつだ。そのときは甘んじて受け入れよう……。
「お待たせました、隆之さま。食堂までご案内いたします」
「あ、はい」
ベッドに転がっていたところを、ちょうど永井さんに見られてしまった。少し行儀が悪いところを見られてしまったので、恥ずかしかった。
俺は立ちあがって、永井さんについていく。廊下を歩いていき、ロビーに出る。そしてそのまま西館の廊下を通じて、食堂にたどり着いた。
「お、おおお」
これはまた……とも続けた。
天井には向日葵のようなシャンデリア。白いシーツが敷かれた縦長のテーブル。まるで誰かの誕生日パーティみたいに豪華な装飾があらゆるところにあって、それが目につく。
「では、こちらの席へ」
永井さんはそう言って、席を空ける。
後ろに下がったイスに座り、背中をすっと伸ばす。
食堂に漂う空気が、自然と俺の姿勢を矯正させたようだ。もともとがそこまでひどいわけではないけれど。
「二度も申し訳ありませんが、ここでお嬢様をお待ちになられてくださいませ」
「ええ、はい」
いやむしろ……部屋でまだ待っていたほうがよかったのかもしれない。緊張して仕方がないのだ。
まあ、来てしまった以上、後には引き返せないわけだが。
それはそれとして。
とうとう、来るのか。
そもそもだ。彼女には好きな人とかいないのだろうか。もし、そんな人がいて、周りの圧力から結婚を強制されていた──ということなら、俺は断るつもりでいる。
だってそんなのは、あまりに可哀想だ。
俺が結婚の件を承諾したのだ。もちろん、断ってそのまま逃げるつもりはない。彼女とそのカレの仲を深めるために協力し、みんなを説得して仲を認めてもらう。
簡単に言わないで、と言われるかもしれないが、せめてそれに届くまでの努力はしよう。
「……ふぅ」
緊張をほぐすために深呼吸を行う。
しかし、この心臓の猛りは一向におさまらない。
「大変お待たせしました、真堂隆之さま」
女性の声。
立ち上がって振り返ってみれば、紅い柄の着物を着た少女が一人。かんざしで純黒の髪を留めている。もし髪をおろしたら長いのだろう。
単純に言おう。
すごく、綺麗だった。
華のようだ。
童顔なのだけれど、目つきは意外ときりっとしている。まつ毛なんかも一つの装飾品みたいに長く、綺麗で。そして女性らしさと少女らしさが兼ね備えられている。たとえば、俺に向けてきたその微笑みとか、あとよく見ればけっこう俺より身長が低いところとか。
いやいや違うだろ。
俺はなに呑気に鑑賞なんかしてんだ。
とりあえずは挨拶だ。
「い、いえ。私も今、参りましたので。どうかお気にせず」
まずい。噛んでしまった。
しかし白河紅子らしき少女はきょとんとした顔を浮かべた。しばらく俺を見つめ、すぐに笑ってみせた。あはは、という童女のような快活な笑いだった。
いかん。変な感覚になる。
なんだよ、さっきより心臓の音が大きくなってるし、鳴るのが早くないか? これ以上緊張したら心臓が破裂してしまうぞ……。
白河紅子さんって、こんな感じだっけ。
もっと気弱で、泣き虫で、それで──
──長髪、だった気がする。
いやなんで、髪の長さがそこで関係してくるんだ?
「そんなに緊張しなくてもいいのに。顔、すっかり赤くなってますよ?」
お嬢様然としているのに、意外と砕けた口調で話してくれた。
「いえ、別に……」
「あと、敬語はいいかな。わたしも堅苦しいのはそこまで好きじゃないから」
それなら、とつぶやいたところ、少女のとなりにいる背広を着た色白の男が言った。あと高身長である。
「お嬢様……もう少し遠慮というものを……」
「うーん、まあそれもそっか。どうする、えっと──なんて呼んだらいい?」
「自由でいいですよ」
「そう、じゃあタカユキ。タカユキは、やっぱり敬語のほうがいい?」
そう問われると答えに悩むものだが、俺はすぐに答えた。
「俺も堅苦しいのは嫌だから、敬語はないほうがいいな」
もしかしたら執事らしき色白の男から睨まれるかもしれない、と思ったのだが、そんなことはなく「真堂さまがそうおっしゃるのなら」とつぶやいただけだった。
「それじゃ、さっそくお料理食べよっか」
ぱん、と手を鳴らして少女は言った。
席に座り、俺たちは豪華な食事を楽しんだ。
* * *
食事を終え、入浴し、部屋に帰ってきた。
食事中に会話があった、というわけではなかった。
どうやら食事中の会話は禁止らしく、さすが屋敷は伊達じゃないなと感心していた。そんな厳しいところへ来てしまった以上、やはり俺も婿入りした身として、その頑固で厳しい規則に従わなければならないというのが俺にはどうも地獄のように思えたわけだ。
それと、あの少女。
白河紅子のことだ。
食事中、俺はじっと彼女のほうを見ていたときがあった。
そのとき俺と目が合い、慌てて目を伏せようしたが、くすりと彼女が笑っていたのを見て──よくわからない感情が心臓をどくんと高鳴らせた。
惹かれた、のだろうか。
たしかに外見だけでもレベルの高い女性だ。
きっと、街を歩いていたら何人もの男性がすれ違いざまに足を止めて、少女を凝視するだろう。
「はぁ……」
先が思いやられる、とばかりに大きなため息をついた。
俺はあの人相手に、旦那にならなくちゃいけないらしい。
そんなとき、部屋の扉が唐突に「こんこん」とノックする音が鳴った。
「は、はいどうぞ」
少し緊張ぎみに上ずりそうな声でそう言った。
すると扉から現れたのは、さきほどまで瞼の裏に浮かんでいた少女──白河紅子であった。
「こんにちは、タカユキ」
目を細めて笑顔を浮かべる、一般男子学生にはあまりにまぶしい存在。
この人が俺と同い年とは思えないな。
「どうしたんで……いや、どうしたの?」
思わずまた敬語を使うところを訂正する。
「うん。一応、改めて自己紹介とかしておいたほうがいいかなって。食事中は話せなかったわけだから、こうして部屋に来ることになったけど、いいかな?」
「もちろん、いいよ」
「うん、ありがとね」
ゆっくりと俺が座っているベッドへと歩み寄る少女。
そして俺のとなりに座りこんだ。
「じゃあ、わたしからね。わたしは
「そっか、着物か。うん、いいと思うよ。すごく似合ってるし」
「そうかな?」と少女は少し照れくさそうに微笑む。「うん、なんかありがとう」
少しぎこちない感じの「ありがとう」。
俺はそれを聞いて、あまり褒め慣れてないのだろうかと思った。もちろん褒め言葉に慣れるなんてことはあまりないだろうけど、お金持ちのお嬢様と来たら、てっきりそういったことは言われ慣れているものかと思った。
だからこっちが「似合ってる」と口にしたとき、しまった、と心のなかで焦っていた。
そのとき、少女の視線を感じ、それが合図なのだと理解して俺は言った。
「ああ。俺は真堂隆之。高校二年生。好きなものはポテトサラダ。趣味は武道というか、カンフーというか、まあそんな感じ」
後半は少し誤魔化してしまった。
元の家の道場で親父によく格闘術なんかを教えられた。柔道とか空手とかカンフーとか、俺はそういったものを浮かべたけれど、親父は「これは柔道でも空手でもカンフーでもない。いずれ役に立つときが来るから覚えとけ」と教わったわけだ。
役に立つ、というのはつまり護身術なのだろうと考えているが、生まれてから十七年を経てこれまで暴漢に襲われるような機会には遭遇しなかった。
「へえ、やっぱりそうなんだ」
「やっぱり?」
「うん。なんか体がっちりしてるし、スポーツとかやってるんだろうなと思ってた」
とはいえ、男のわりには多少細身なところがある。身長は百七十七ぐらいまでには到達していたが、もう少しそれに見合うように体が大きくなってほしいものだ。
「……」
「……」
少々ぎこちなかった自己紹介。
それを終えると、ぎこちないどころか気まずい沈黙に陥ってしまった。
お互いに顔を伏せ、他に何か話題はないものかと悩んでいるところだ。
それから一分ぐらい流れて、開けっ放しだった扉から声が聞こえた。
「お姉さま。私、もう入浴してきていいかな?」
お姉さま。そう彼女を呼ぶ声に、俺はひどく頭が揺れるような懐かしさに浸っていた。
なぜだろう。
「あ、サクラ」
サクラ?
「うん、いいけど。って、まだわたし入ってないや」
「えー、まだなの?」
「ごめんごめん。ってことで、タカユキ、またね」
少女はそう言って、俺に手を振る。
扉を出て、左へ曲がり、進んでいったのだと思う。
しかし──、
「……どうしたんだい?」
「なにがですか」
扉に現れてはこちらをじっと見つめている、白河紅子よりも少々幼さがある少女。その子はサクラと呼ばれた子だった。たぶん、その子は白河さんの妹なのだろう。
「なんで俺をじっと見ている?」
なぜか、彼女相手だと普通に会話できた。
慣れている。そんな理由が一番に思い当たった。
顔は白河紅子と似ていて、和風美人である。だからきっと、戸惑うはずなのに。
まあ、別に俺が美人を苦手としているわけじゃないが。
「いえ、別に」
「……そうか」
それでもじっと見てくる。
しかしどうするべきか。
一応、このまま自己紹介しておくべきだろうか?
1,今すぐに自己紹介すべきだろう。
2,あとで自己紹介をしよう。(咲良ルート)
まあ、今すぐのほうがいいだろう。
そのほうが手間も省ける。
「こんにちは。俺は真堂隆之っていって……」
「知ってます」
と、口をとがらせて言った。
「ほかにも言うことがあるんじゃないですか」
サクラという少女は目を細め、こちらを睨むような形でそう問いを投げかけてくる。
「ええっと……よろしくお願いします」
「……っ」
まず目を大きく見開いて、その次に少し悲しげに目を斜め下に向ける。唇をかみしめているようにも見えた。俺はその仕草を目にして、またひどく懐かしい気分になった。
頭が揺れる。
「私は白河家の次女──つまり白河紅子の妹です。サクラと言います。字は花咲くの咲く、良好の良いです」
俺はそう言われて、空中に指でその字を書いた。
「咲……良」
その作業を終えたころには、もう扉の向こうに彼女はいなかった。
あれ、と首をかしげる俺。なんだかよくわからないな、と俺はベッドに転がりながら、やがて目を閉じた。そし彼女のことを考えていたのち、意識は夕陽のように沈んでいった。
* * *
目を覚ませば、そこは血みどろの場所だった。
魑魅魍魎どもの巣窟。俺のような人間にとっては吐き気を覚えるような場所なのに、どうしてか、俺にはそれが魅力的に見えた。
体を起こす。
よく見たら路地裏みたいだが、深い夜らしい。
「もう……何も聞こえない」
呪文のように、そうつぶやいた。
あからさまにおかしい状況だというのに、俺の精神状態は常に安定していた。普通なら悲鳴の一つぐらい空に響かせるものだが、どうやら俺はこの状況を前にして恐怖すら通りこして絶望的だと考えているらしい。
何もできない、という圧力のように押しかかる無力感。
逃げ出せない、という縄のように体をしばりつける閉塞感。
“……ふふふ……”
そんなとき、不意に人形の笑い声を聞いた。
耳に残る、風鈴のように綺麗な音。驚いた、人形の笑い声なんて聞いたことなんて一度たりともない。だというのに俺は、この笑い声を人形のものだと認識した。
“……ふふふふふ……”
笑い声は長さを増して続く。
奇妙で、奇麗だけれど。
「今はそれどころじゃ、ないみたいだ」
後方を振り返り、その残骸に右足のかかとを振り落とす。するとあまりに脆かったためか、頭蓋はいとも簡単に割れた──いや、爆散したとでもいうべきか。
本当に残骸だった。
腐っている。ハエがたかっていて、皮がもう剥けていて所々肉がむき出しになっている。ゾンビみたいだ。
それから横。左腕のひじで腐敗しきった顔の骨むき出しの鼻をつぶす。鼻だけにとどまらず、顔面がへこんだ。それで、相手は倒れる。
ひじには血がついている。
赤い、あかい、紅い。
そんなことを、延々と繰り返していた。
途中で、風鈴の音が俺にこう語りかけた。
“……迎えに、いくからね”
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