第二章 僕は世界でたったひとり(12)

 深沢秀一の身体が硬直した。


「それからこれは瀬戸裕也本人が持っていた赤い消しゴムだ。キミはさっきから自分の鞄を気にしているが、あの中に赤い消しゴムが入っているんだな?」

「あ……」


 ゆっくりとその視線が落ちていく。


「無意識で気づいていないかもしれないが、キミは死んだ生徒たちのみようは全員呼び捨てで『連中』とまで呼んでいる。なのに瀬戸裕也だけは『瀬戸くん』だ。深い仲でもなく無関係と言い切るのに、どうして呼び方に差が出ているんだ?」

「……そ、それは、たまたま……」──唇が痙攣している。

「もちろん他にも疑問点はある。消しゴムを回収するためにプールに飛び込んだ瀬戸裕也はコインランドリーで制服を洗って、乾くまで公園にいたそうだ。裸で、か?」


 家に帰らずわざわざコインランドリーを利用したのは、家で引きこもっている父親と鉢合わせるのを危惧したからだろう。父親思いの少年は、自分がイジメられていることを悟られたくなかったのかもしれない。


「瀬戸裕也のそばには常に『誰か』がいた。彼は、自分が生きていることで救われている人がいると言っていた。それは深沢秀一……キミのことだな?」


 濡れて公園のヒヨコの乗り物に寄りかかる彼に、着るものを貸してあげた人物。

 その存在を彼はと呼んだ。優しさを感じていたのならば使と呼ぶほうがふさわしいはずなのに、である。そう比喩して呼んだ理由は当然だが、悪い意味だ。


「キミたちは『友達』だったのか?」

「…………」──彼は黙って下を向いていた。

「まだ鍵をなくしたと主張するのであれば、残念だが日本の警察は証言をみにするほどバカじゃない。すべての不審死の際には、鍵の差し込み口の腐食片を調べている。もし四件すべてにおいて瀬戸裕也とキミの両方のDNA型が検出されれば、美術室の鍵は、どちらかひとりが持っていたのではなく、ふたりが持っていたことが証明される。そして室内からは第一発見者のキミの証拠しかない。殺したのは間違いなくキミだ」

「……友達……だって?」

「キミの殺人の動機はそれ以外に考えられない」

「──……そう思ってたのはあっちだけだよ」


 深沢秀一は唸るような声で言った。


「鍵は持たせてたんだよ。疑われたらてめぇが犯人になれよって」

「友達を助けたくて殺したんじゃないのか」

「さっきから友達、友達って、なに偽善者扱いしてんだよ。他人のために四人も殺すわけねぇだろ」


 口調ががらりと変わった。


「瀬戸くんが自殺しちゃう前にあいつらぶっ殺しただけだよ」

「だからそれは……」──友情からくる感情じゃないのかと朱理は言いかけた。

「彼にはこの学校でずっとイジメのターゲットになっててもらわなきゃ僕が困るんだ。僕は瀬戸くんが自殺しないように見張ってたけど、友達だと認識されんのはもっと困るからつかず離れずの関係を保ってた。けど瀬戸くんはもう限界だったんだ、あと一年半も耐えられなかったんだ」

「義務教育の中学生活はたかが三年だ。それがどうして我慢できなかった」

「たかが……三年……?」──ぴくりと眉が歪む。

「転校という手段だってある。理不尽な暴力からは逃げるべきだ」

「僕らよりちょっと長く生きただけの大人が簡単に言ってんじゃねぇよ。じゃあてめぇは都合が悪くなったらすぐ逃げられんのかよ」

「少なくとも人殺しは間違っている、子どもでもそれぐらいわかるだろう」

「わからないね。なんで僕らが逃げるんだ。悪いのはあいつらじゃないか……」


 深沢秀一はだんだんと苛立ってきた。


「理不尽な暴力を許してきたのはてめぇらじゃないか!」


 その目には大粒の涙が溢れた。

 ──かわいそうだが……死んでもらう。

 朱理は赤い消しゴムをポケットに戻して、黒い手袋に触れた。悟らせず身にすり寄せるようにゆっくり指を滑らせて手袋をはめる。

 ここは学校だ。夕陽も落ちてほとんど人の気配は感じられないものの、ベルが食い殺すまでの間に暴れられたら物音で学校の関係者が気づいてやってきてしまうかもしれない。そうなったときに、素手での接触だけは──避けなければ。


「ベルゼ──」「てめぇら大人はそうやってれいごとばっか言いやがる!」


 朱理の言葉は耳をつんざくような激情に遮られた。


「たかが三年の中学生活だと思うなよ、三年もあるんだ! 学校に通うのは義務だって決めたのは誰だよ……義務教育ってなんだよ! 学校なんて監獄と一緒だ!」


 頭に血が上った深沢秀一は早口でまくし立てた。


「友達だとか友情だとかそんなん関係ねぇんだよ! 三年間なんとかして、誰かを盾にしてでもうまく隠れて生きなきゃ、僕らは勉強も部活も趣味も寝ることも息をすることも、ずーっと制限されるんだ! 最悪なぁ、生涯ずーっとだよ! 辱められて、写真の一枚でも撮られたら最後だ。SNSでは流し放題。ログは永遠に残る。てめぇらみたいなネットもなくて曖昧で済ませられた時代を生きてきたやつらに、僕らの、逃げられないこの世界でたったひとりにされる孤独がわかるもんかッ!」


 まずい、と朱理は背後を気にした。

 深沢秀一は両手でぐしゃぐしゃと髪の毛を搔き乱す。

 過呼吸気味に叫び散らして、ため込んでいた鬱憤を出し尽くすまで止まらない。

 この騒ぎではさすがに誰かが来そうだ。朱理は一旦退くべきか──けれどここで退いたら、深沢秀一はなにをしでかすかわからないとも思った。「くそ……っ」素早くスマートフォンを手に取り、応援を要請して、ひとまず彼を保護すべきかと迷う。


「僕らが殺される前に、殺してなにが悪いんだよ!」


 朱理はいまここで彼を殺すことを諦めた。あの女刑事の携帯電話に発信する。

 うなじの黒い歯車は消えかけているが、瀬戸裕也を殺したぶんだけ僅かに日数は稼げている。チャンスは取り調べのときでもなんでも、いずれは訪れるだろうと信じて。


「シュリ、問題ない。我の名を呼べ」


 金髪が揺れて、白い指が朱理のスマートフォンの画面に触れた。何回かコールしていたがその電話が繫がる前に切られた。


「誰も来ぬわ」

「なっ……」──朱理は絶句した。


 なにを根拠にそんなことをとベルに食ってかかろうとして隙をつかれた。


「どうせ僕は死ぬんだどうせ僕は死ぬんだ、殺しても死ぬんだ──ッ!」


 深沢秀一はぐちゃぐちゃに叫びながら窓に向かって走り出した。黄ばんだカーテンは吹き込む風で揺らめいた。大きな亀裂が入ったガラスはすこしの衝撃で簡単に破れる。


 ──自殺……!


 舌打ちを残して朱理は腕を伸ばした。間に合わない。距離がありすぎる。


「死なせるくらいなら殺してやったほうがいい」


 瀬戸裕也を殺したそのときの胸のうちを代弁されるようだった。


「……ベルゼブブ!」──相手は子どもだ。


 朱理はあと一歩が届かない迷いを捨てて叫んだ。

 それと少年の肘がガラスを割るのはほぼ同時だった。


「そいつを食え!」──それでもすべては復讐のために。


 窓枠に手を掛けた少年は、がくん──と、溺れるように膝から崩れた。


「……せ、と、く……ん……」


 片手で胸を押さえて、這いずって、彼は昇りかけの月に血まみれの手を伸ばす。


「どうして……ここに……」


 涙に濡れた瞳は光を失って濁った。ベルに食われ、闇の中に吸い込まれた彼の目には、瀬戸裕也が手を差し伸べている光景が映っているのかもしれない。




   殿岡を殺したのは深沢くんだよね……。

   美術室の鍵、ボクに……渡して。

   もし疑われたらボクが殺したことにするから。

   じゃあ、これ。代わりに……この、お魚さんの消しゴムを持ってて。

   殺した理由は訊かないよ、わかってるから。だってボクらは──、




「……僕を……許すの……、僕は……キミを、……突き放したのに……」


 ふたりの少年は卒業後も『友達』であり続けるために、『友達』であることを辞めた。


「このせかいは……ぼく、ら、に、やさ、しく、……なかっ……た、ね……」


 この狭い水槽の枠を倒れ込むように乗り越えた少年は、落ちていった。

 遠くで鈍い衝撃音がするのと同時に、朱理のうなじは燃えるように熱くなった。

「……早く……」──殺し殺される負の連鎖を終わらせなければ。

 真っ黒に染まった歯車を隠すように撫でながら朱理は苦虫を嚙みつぶしたように顔をしかめた。


「貴様、助けようとしたな?」


 唇をぺろりと舌で舐めて、金髪碧眼の悪魔は肩越しに振り返る。


「子どもだったからか? 言い訳をならべて躊躇うとは、我との約束を忘れたか」

「違う……本当に、誰かに見られたらまずいと思っただけだ」

「まぁいい、つぎはもうすこし早く食わせろ」──声を出さすにベルは嗤う。


 急に朱理の背がぞくんと震えた。せきを切ったように学校が騒がしくなったのだ。

 ボールを蹴る音。生徒がじゃれあう喧噪。音楽室から響く、すこし外れた吹奏楽器の音色。そして階下からは深沢秀一の無残な姿を発見したであろう女性の悲鳴がした。


 ……おかしい。


 なにかが変だと、朱理はつり下がったままの鈴木仁八を凝視した。




 ──現場はこれだけ荒れてるけど、誰かと言い争っていたとか目撃証言は一切ないの。




 ふと、鈴城恵美がそう言っていたのを思い出す。

 朱理は脂汗の浮いた額に手をあてた。


「……四人も……、誰にも気づかれずに殺せるものなのか……?」


 ここが開放的な学校という場所でなければ不思議に思わなかったかもしれない。

 壁の分厚いマンションであったり、隣家と距離の離れた一軒家であったり、密室の偶然が重なれば可能だろう。もしくは被害者がこんすい状態で一気に首を絞められたのであればありえる状況だが、被害者たちの首には激しく引っ搔いた傷が見えた。


「なにをぼーっとしておる。後始末とやらはいいのか?」


 ベルに肩を叩かれて、朱理は我に返った。

 学校のチャイムが真夏の夕方の空にコーンと響いた。



 目白署のデスクで鈴城恵美は頰杖をついていた。

 刑事課には自分以外、誰もいない。

 彼女は受話器を肩と耳で挟みながら、コツコツとせわしなく人差し指の先端でデスクを叩く。パソコンの画面には学校側から提供された生徒たちのイジメに関するアンケートの集計結果が表示されている。目白駅近くの公園でヒヨコの遊具から滑落し、その衝撃で心肺停止になったとされる瀬戸裕也が「イジメられている」と明確に記載した生徒はわずかに五名。ほとんどの生徒は未記入だった。

 そのうち、たったひとりだけがイジメを行っていた生徒の名前を列挙している。照合した結果、美術室から飛び降り自殺した連続殺人犯──深沢秀一の字だとわかった。

 どうしてこうなってしまったのか。学校がもっと早くこの資料を渡してくれればもしかしたら救えた命もあったかもしれないのに、いいやもっと強引に学校側に詰め寄っていたらこんな結果にはならなかったのか……。

 どうするのが正解だったのかと鈴城恵美はやり場のない怒りに震える。

 市民に尽くすのが警察の仕事で、穏便に済ませることもまた警察の仕事だと、自分にも他人にも恵美は口癖のように言ってきた。穏便とは隠すという意味ではない。事件を未然に防ぐという意味だ。なのに実際はどうだったろう。自分は果たして──……。


「──それはアタシたちを疑ってるってことなの?」


 彼女は電話をかけてきた相手に対してキツい口調で応えた。


「アタシはおかしいとは思わなかったわ。確かに深沢秀一は自殺よ。アンタたちのところの一之瀬くんの痕跡は出なかった、接触ゼロで間違いなしだけど?」


 相手はの人間だ。恵美はびる必要性を感じなかった。


「深沢秀一の飛び降り自殺を止められなかったって一之瀬くんは言ってたわ。彼がアタシに応援要請の電話をかけた時刻と、深沢秀一の遺体発見時の証言者との話に食い違いもなかった。折り返して以降は一之瀬くんは概ねアタシたちには協力的だった。まぁ、ちょっと無愛想なのは気になったけど別にそれは性格……」


 話している途中でぶつん、と一方的に切られる。

 あまりにも失礼な態度に驚いて受話器を耳から離した。


「ちょ、なんなのよ! だから本店のヤツらは嫌いなのよ!」


 叩きつけるように受話器を置いて、恵美はあぁもうッと椅子にもたれた。




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