第二章 僕は世界でたったひとり(11)
†
ずり落ちて寄りかかった少年の重みで、ヒヨコの乗り物が傾いている。
瀬戸裕也はおそろしいほど素直に死を受け入れた。
悪魔に魂を食われる恐怖の時間は、現実にはほんの数分でも、本人にとっては永遠に続く苦痛だと以前ベルは言っていた。だが彼はいままでの誰とも違う死にざまを見せた。命の
その死に顔は心なしか笑っているようにも見える。
朱理の胸には苦いものが
「こんな薄味の魂など食った気がせぬ」
白いシャツの腹をさすり、ベルは不満を垂れながら朱理の首に触れて言った。
事切れた少年を見下ろしながら朱理は思う。瀬戸裕也の歪んだ思想と凶行には同情できないが、その悲運な境遇に、誰かが寄り添うことはできなかったのだろうか。
なんともいえない後味の悪さが残った。
「……うん……?」
不意に、触れられたうなじに違和感を覚えた。
首筋を覆うようにぺたりと触れる。──……冷たい。
いつもなら燃えるように熱く刻まれる歯車が、なんの反応も示していなかった。
「おいベル、どういうことだ」
朱理は顔をしかめる。
「いま殺人者の魂を食ったんじゃないのか」
「食べたぞ、一応な。貴様が食えと言うから仕方なく食ってやったわ」
ため息交じりにベルが言う。
「仕方なく……?」
フン、とベルは鼻で笑った。両腕を組み、試すような薄笑いを朱理に向けてきた。
「まぁ寿命一日分ぐらいは稼げたのではないか?」
「この子は三人殺したんだぞ、たとえイジメられていたのだとしても殺していい理由にはならない。自分をイジメた生徒をあとひとり殺せなかったとはいえ──」
瀬戸裕也の、あまりにも素直に受け入れた死の意味を悟る。
「あと、ひとり……? まさか……」
──悪魔がボクに力を貸してくれたんです。
──ボクが死ねって言ったんで、きっと今夜、悪魔が殺してくれます。
──悪魔はずっと、ボクのそばにいてくれたのに……。
悪魔──……、ずっとそばにいた。
「いい顔だなシュリ。そうやって怒り、苦しみ、嘆いて、もっと我を楽しませろ」
「……俺は……」──ぬるい汗が背中を伝う。
「貴様は焦って間違えたのだ」
そういうことだったのかと朱理は上着の裾を翻し、駆け出した。
「我の好物は殺人者の魂だが、それ以外を食えないとは言っておらぬからな!」
背後でベルがゲラゲラと高笑いする。拳が届く直前に蠅の姿に変化されて逃げられるとはわかっているが、その愉しそうに笑い続ける頰を思いっきり殴り飛ばしたかった。ベルは誰が本当の殺人犯なのか最初から気づいていたのだ。だがもし問い詰めたところで、はぐらかされただろう。これまでもそうだった。きっと──これからもそうだ。
『どんどん死体が増えていくなぁ!』
金色の蠅がうれしそうに飛んできて、朱理の耳元で嗤う。
『あぁ愉快だ、愉快ッ!』
「くそが……!」
このうるさい蠅を叩き潰すことができないのが歯がゆい。
朱理はベルがいなければ生きてはいけない。復讐を遂げることもできない。
それは瀬戸裕也も同様で、あの狭い水槽の中ではそうだったのかもしれない。
†
ぎぃぎぃと荒縄が鳴いている。
薄暗い美術室の中央で鈴木仁八がつり下がっていた。
床にはパレットやイーゼルが散乱し、机や椅子もそこらじゅう引きずられた跡を残しながらぐちゃぐちゃに倒されている。犯行で残された足跡を搔き消すように。
内ばきを片手に持った少年が廊下を背にして屈んだ。
埃と石膏の粉まみれの足を内ばきに突っ込む。
「キミが彼の悪魔か」
少年は丸めた背中をぴくりと跳ねさせた。
「いま警察を呼ぼうと思ってたので、ちょうどよかったです」
「自首か」──朱理は走ってきた荒い息を悟らせないように短く言った。
「鈴木が自殺していたのを見つけたんです」
凜とした声が振り返る。
「それって『自首』じゃなくて『通報』って言いませんか?」
深沢秀一は冷めた目で朱理を見返した。
恐ろしいほど静まりかえった校舎には人の気配がない。ほとんどの生徒はもちろんのこと、なぜか教職員の姿すら見かけることはなかった。校舎には不気味な静寂が漂う。正門から玄関、階段をあがって美術室までの最短ルートで朱理は誰とも遭遇しなかった。学校とはこんなに人の目が少なくて無防備な場所だっただろうか。すぐ目と鼻の先にある私立校の厳重な警備とは雲泥の差だった。
「瀬戸くんをイジメていた連中が相次いで殺されて、怖くなって自殺したんですかね」
深沢秀一は神妙な顔をした。
「これを自殺だと言いたいのか。それを偶然キミは発見したと?」
「僕は美術部なんで、別に部活動をしに来ててもおかしくないですよね。とはいっても、部員は僕ひとりなんで事実上は美術部なんて廃部になっているも同然なんですけど」
朱理と深沢秀一は揃って、天井からぶら下がっている遺体を見上げた。
「……助けないんですか?」
「キミこそ随分と冷静だな」
「下ろして助けようと思ったんですけど無理でした」
「触ったのか」
「あー……触りましたね。すみません、それは謝ります」
床には遺体から漏れ出した体液がぽつぽつと落ちていた。
もう手遅れだと朱理は思った。鈴木仁八は
「もしかして僕、疑われてますか?」
深沢秀一は目を丸くして小首を傾げた。
「警察の人たちが調べたら、指紋とかいっぱい出てくるかもしれませんけど、さっきも言いましたが僕は美術部なんです。あの女刑事さんに訊いてください。いままでも第一発見者は僕なんですよ。でも僕には彼らを殺す理由はないんで」
美術室から出て行こうとする彼を、朱理は腕で止めた。
「なんですか?」
「キミはいま『彼らを殺す理由はない』と言ったな」
「そうですよ。むしろ関わり合いたくないぐらいでなるべく避けてました」
確かに、あのとき鈴木に殴られ蹴られていた瀬戸裕也に、彼は手を差し伸べることなく去っている。
「一年前までは、この美術室は瀬戸裕也をイジメる現場になっていたそうだな。そのせいで部員たちは辞めて美術室は施錠されるようになった」
「はい、そうです。毎日部活どころじゃありませんでしたよ」
深沢秀一は意外にもあっさりとイジメの実態を認めた。
「その後、鍵は美術部の顧問の教師と部長だけが持っていた。部長とは唯一の部員であるキミのことだろう。鍵はどうした?」
「それが……見当たらないんです」
「なくしたのか?」
「はい。最初に殿岡が死んだとき顧問の先生に伝えました。もちろんあの女刑事さんにも話しました。予算の関係とかで鍵の交換には時間がかかるらしいです」
鍵一本の
「鍵をなくした責任を感じてたんで、放課後は美術室に鍵がかかってるか見に来てて」
「で、鍵が開いていたと?」
「今日も誰かが僕の鍵を使って開けたんでしょう……」
「瀬戸裕也が美術室の鍵を持っていた」
すると深沢秀一は顎に手をあてて「そういうことか」と呟いた。
「やっぱり瀬戸くんが彼らを殺したんですね」
「やっぱり、とは?」
「そっか……やっぱり……そう考えるのが自然ですよね。僕だけが怪しんでいたわけじゃないです。口にはしなかったけど、たぶんクラスのみんな、そう思っていたんじゃないでしょうか。瀬戸くんは僕の鞄から美術室の鍵を盗んでイジメていた四人をひとりずつ呼び出して殺した……四人全員殺し終えたら鍵を僕の鞄に戻して、僕に罪をなすりつけるつもりだったとか、そんなところですか?」
「やけに冷静だな」
「冷静っていうか、仕方なくないですか? 僕らは瀬戸くんがイジメられているのを、見て見ぬ振りをしていました。でも誰も止めなかったし、先生たちも黙認していました。いつかはこうなるんじゃないかと思ってましたから」
横目で睨む朱理を、深沢秀一は
「僕らだって罪の意識がなかったわけじゃないですよ。でも大勢の人間が一緒に生きていくって結局は誰かが我慢しなきゃ成立しないよなぁってみんなわかってるんです」
深沢秀一は淡々と続ける。
「イジメって
「キミの言うその犠牲が瀬戸裕也だったのか」
「僕というかこれってみんなの代弁ですよ。でもなんて言うんですか、
「いいや違う、瀬戸裕也は誰も殺していない」
「……え? じゃあ誰が──」
「全員キミが殺したんだ」
シン、と──埃を含んだ空間が固まった。
やがて深沢秀一は口の端を引きつらせて「いいえ」と首をねじ曲げた。
「だって鍵は瀬戸くんが持ってたんでしょう?」
「確かに実際に彼が持っていた。だがそれは今日、……しかも、ついさっきだ。たとえば鍵を開けてから、キミが瀬戸裕也に鍵を託したとも考えられる」
「ちょっと待ってください。僕が噓をついているとでも言うんですか?」
「第一発見者ならば警察関係者に手荷物の確認をされているはずだ。キミが鍵を紛失していたのは事実だと認められたから犯人とは見られなかった。だが実際には、美術室の鍵は殺してからすぐに瀬戸裕也に渡し、交互に持ち回していたのだろうな」
「それじゃあ逆じゃないですか」
「あぁそういうことだ。瀬戸裕也はキミに罪をなすりつけようとしていたんじゃない。いざとなったときにキミが瀬戸裕也に罪をなすりつけようとしていたんだ。遺体発見時に美術室の鍵を持っているのは瀬戸裕也だからな。彼には殺すだけの動機もある」
「仮にそうだとしても、僕には彼らを殺す動機がないじゃないですか」
朱理はポケットに手を突っ込んで赤いブロック消しゴムを出して見せた。
「それは……?」
「組み立て消しゴムだ」
深沢秀一は急に顔を険しくして真正面を向いた。
「それが、なにか関係あるんですか」
平静を取り繕っていた子どもが、一気に追い詰められた幼い表情になる。
「これが共犯を証明してくれる」
焦って泳ぎ始めた視線が、廊下に置き去りにされたままの鞄に向いた。朱理はその鞄の中を探らなくとも彼が焦る理由をわかっていた。
「瀬戸裕也が大事にしていた組み立て消しゴムは、イジメられてプールに捨てられた。しかし使用不可のプールに飛び込んだ彼は、先生に𠮟られて消しゴム三十六個のうち、組み立てて遊べる最低限の十九個しか回収できなかったと嘆いていた。だが青の消しゴム十七個と、赤の消しゴムを一個。合計十八個しか持っていなかった。自ら『宝物』と称するものなのになぜそんな誤認が発生しているのか不思議だったが、組み立ててみて初めてわかった」
「…………」──深沢秀一は唇を引き結ぶ。
「赤い消しゴムは重要な目の部分だ。二個なければ組み立ては完成しない」
どうやら認めるつもりはないらしい。朱理の隙をついて逃げようと思っているのか、足がじりじりと不自然に後退している。
「それでキミはなぜこの赤い消しゴムを持っているんだ?」
「や、あの……、偶然……じゃないですか? それが瀬戸くんのお魚さんの赤い消しゴムとは限りませんよ。刑事さんは知らないかもしれませんが、組み立て消しゴムっていろいろあるんです。……ゾウさんとか……カエルさんとか……」
蚊の鳴くような声が落ちる。
「あっ!」
言い訳を思い付いたのか、彼ははっと顔を上げた。
「そうだ! それは拾ったんですよ! どこだったかな、たぶん廊下で──」
「俺はこれが『お魚さん』とは言っていないが」
「え……?」
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