第二章 僕は世界でたったひとり(10)
瀬戸裕也は入学してすぐに四人の生徒からイジメの標的にされた。
美術室は彼らにとってその行為を行うのにちょうどいい場所だった。壊される石膏像、イーゼル、ロッカー、ガラスの入れ替えが不可能になるほど歪んだ窓。慌てて顧問の教師が駆けつけるころには加害者たちは退散し、瀬戸裕也だけが残される状態が続いた。
──ボクがやりました。
そう言うしかなかった。イジメの加害者四人からの報復がおそろしかったから。
そして誰も関わろうとしなかった。その矛先を向けられたくなかったから。
やがて顧問の教師は見て見ぬ振りをするようになり、美術部の部員たちは怯える毎日から逃げるように退部していき、深沢秀一だけが部長として残った。
ある日の放課後、顧問の教師から呼び出された瀬戸裕也は、部長の深沢秀一と話し合った結果、強制退部処分とすることになったと伝えられた。
そう語ってから、瀬戸裕也はスラックスのポケットに手を突っ込んだ。
握った拳を出して開けば、小さな鍵が手の中にあった。
「美術室の鍵です」
彼はうっすら笑った。
「最後には深沢くんに罪をかぶせるつもりで……ぜんぶボクがやりました」
どろりと
「あの美術室、至るところに釘が刺さってるんです。ロープをわっか状にして、出入り口に仕掛けておきました。ひとりずつ呼び出して、扉を開けて入ってきたら思い切りロープを引っ張って、引きずって、天井から
群れを成したカラスがギャアギャアと鳴いて飛び立っていった。
「ボクひとりじゃあさすがに四人は一気に殺せないので、ひとりずつ呼び出したんです。殿岡は一番単純でケチだったので簡単にお金で釣れました。二人目の松田も同様です。でも三人目の山本はさすがに警戒するだろうなと思ったんで、呼び出す手法を変えました。山本のお父さんは区議会議員なんで誘うというより脅しました」
「……」──朱理の眉間に皺が寄る。
「美術室はやつらにとってボクをイジメる場所だったから油断したんでしょうね」
淡々と語る声に感情はない。
「なぜ殺した」
「じゃあボクが自殺すればよかったんですか?」
やけに落ち着いている彼を揺さぶるつもりで朱理は質問を変える。
「よくひとりずつ呼び出せたな」
「あぁそれは、悪魔がボクに力を貸してくれたんです」
「悪魔……?」
金色の蠅が朱理の周りを愉快そうに旋回する。いや──ベルに限ってそんなことはないはずだと思った。ベルの好物は非道な殺人者の魂だ。
「……まさかとは思うが、おまえの仕業じゃないな?」──囁いて確認する。
『我が人間の魂を食えば貴様の歯車は黒くなるが?』
朱理は密かにうなじに触れた。ここ最近は消えるいっぽうで、今朝、鏡で見たときも黒い歯車はかなり薄くなっていた。それはつまり長期間ベルが人間の魂を食べていない証拠でもあった。
悪魔が力を貸してくれた、とはおそらく比喩表現だ。子どもの幻想か、妄想だろう。この金色の蠅がさっきから妙におとなしいことは引っかかるが朱理はそう解釈した。
「人を殺す勇気が出せたなら他にいくらでも手はあっただろう」
「じゃあ誰に訴えたらあいつら四人を学校から追い出してくれたんですか。大人たちはイジメから逃げろとは言っても、イジメた連中を学校から排除することは頭にないんですよ。これはボクにできた精一杯の勇気だったんです」
逃げる場所もない。
生き続けるのも地獄。
でも自分が死ぬのは迷惑。
だったら、殺せばいい。──……彼は、薄暗く濁った空を見上げる。
「ボクは間違っていたとは思っていません」
こんなことは言うべきじゃないと朱理は思ったが、訊かざるをえない。
「もうひとり残っているぞ」
「……鈴木ですか。はい、まぁ、そうですね……でもあいつはほっといても死にます。ボクが死ねって言ったんで、きっと今夜、悪魔が殺してくれます」
また悪魔か──と朱理は肩を落とした。イジメを受け続けて極限状態に追い込まれ、この若い年齢で短期間に三人も殺したのだ。殺したのは自分ではなく悪魔であると思い込む、妄想の世界に浸ることで、彼は休息の時間を得ようとしているのかもしれない。さすがに四人目には手が伸びず疲れたのか。
「どんな事情があろうとキミは人殺しだ」
星でも探しているのだろうか。上を向いた瀬戸裕也の目は左右に揺れている。
「ボクは逮捕されるんですか?」
朱理は悪魔の名を口にしかけて躊躇った。彼はいままで朱理が
「……まだやりなおせる。自首を勧める」
「へぇ、そう……ですか。ここまで言っても逮捕されないんですね」
「自首をしないというなら逮捕状を請求する」
「それってどれぐらい時間がかかるものなんですか?」
瀬戸裕也は首を戻してブランコに視線を移した。
「ボクが首吊って死ぬまでに間に合いますか?」
朱理はベルのように人間の魂の色は見えない。だが彼の魂は取り返しがつかないほどに真っ黒に染まっていると感じた。その小さな両手はこれから最後の殺人を犯そうとしている。自殺だ。
四人全員を殺したところで彼に希望は残るのだろうかと思った。本来支えとなるべきはずの両親は子どもに目を向ける余裕もなく、家庭は崩壊寸前だ。そのことを彼もじゅうぶん理解してしまっている。まだやりなおせる──なんて赤の他人が吐く言葉は、彼が言うところの『逃げ場所がなかったから自殺するしかなかった』という絶望を覆せるほど心に響く支えにはならない。
──俺の命も、もう保たない。
死なせるくらいなら殺してやったほうがいいと、朱理は結論を出す。
「……来い、ベルゼブブ」
朱理が呼びかければ、背後で金色の蠅が人間の気配を纏わせた。
少年の瞳にずるずると禍々しい闇が忍び寄る。
「悪魔の名前だ……」
「この世に悪魔なんてものはいない」
朱理は遮るように言った。
「ボクはずっと誤解していました。小さいころに読んだ絵本には、天使は良いやつで、悪魔は悪いやつなんだって描かれていたから。でも実際は違うんですね。天使は良い行いをしたら死ぬときに迎えには来てくれるかもしれない。でも生きているうちに助けてはくれなかった。悪魔はずっと、ボクのそばにいてくれたのに……──」
瀬戸裕也は穏やかに目を閉じた。
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