第二章 僕は世界でたったひとり(9)


 杉並区の住宅街は静かな夜に包まれていた。


「……ただいま」


 朱理は自宅マンションのリビングチェアに腰掛けて、ホームセンターの紙袋を開けた。テーブルの上には『組み立て消しゴムシリーズ・お魚さん』の小さな箱が転がる。幼児の誤飲を防ぐためか大きな文字で、対象年齢六歳以上と印字されている。


 ──意外と難しいな……。


 傍らに説明書を広げ、ブロック消しゴムを組み立てていく。

 すべておなじ形かと思いきや突起の数に違いがある。側面に穴がなく突起があるだけの消しゴムが土台になるらしい。一個一個確認しながら土台を作り、半分までさしかかったところでベルが向かいの席にどかりと飛び乗ってきた。


「なにをしておるのだ?」


 ベルは椅子の背もたれに組んだ腕と顎を乗せ、にやにやと朱理の手元を見る。


「貴様がそんな子どもの遊びに興味を持つとはな」

「ちょっと気になることがな……」

「ほぅ?」──ベルは転がっている青い消しゴムを一個摘まんだ。


 瀬戸裕也は全三十六個からなる宝物の『お魚さん』のうち、だけしか持っていないようだが、それでも意味のあるもののように大事にしていた。半数も欠けていたら組み立てられないから持ち歩いていても仕方がないのではないかと朱理は思った。

 違和感を覚え立ち寄ったホームセンターで手に取った『組み立て消しゴムシリーズ・お魚さん』の箱の側面に印字されている「遊び方」を読むと、どうやら三十六個揃っていなくても組み立てて遊ぶことができるらしいのだ。


「マグロ……サンマ……イカ……」


 ぶつぶつと呟きながら真剣な顔でぷちぷちと消しゴムを組み立てる朱理を、ベルは不思議そうに覗き込む。


寿のネタか?」

「まぁ……魚だからな」

「そう聞いたら今夜は寿司の気分になったな。よし、寿司の出前をとるぞ」


 ベルは朱理の共済組合保険証とクレジットカードを持ち出し勝手に契約したスマートフォンを使っている。慣れた手つきでアプリを駆使し、さっさと出前を頼んだらしい。あと三十分で来るぞと一方的に言われたので朱理は呆れて肩を落とした。


「俺はいらん」

「ほーほーそう言ってよいのか? 貴様の好物のエンガワ入りの桶にしたぞ。目の前でうまそうに食われたら、やっぱり食いたかったと思うかもしれんがなぁ」


 朱理の手が一瞬止まる。


 ──なんで俺が好きなネタを知ってるんだ……。


 じろりと睨む朱理のその反応に、ご満悦らしい悪魔はフハハハと高笑いした。


「ん、エンガワ……? ……ヒラメ……か」


 説明書を裏返すと、もっとも少ない個数で組み立てられる「ヒラメ」があった。

 最低でも青の消しゴムが十七個、赤の消しゴムが二個あればできる。他の魚に比べて平べったく立体的ではないが、そのぶん隣接する消しゴムがハマれば突起やくぼみの形には制限がない。──もしや……と組み立て途中の消しゴムを一旦ばらした。

 集中しているうちにチャイムが鳴り、ベルがさーっと走っていった。

 朱理は試しにランダムで青の消しゴム十七個を摑んで何パターンか組み立て始めた。


「シュリ、最後の一貫だぞ。ほぅらほぅら食ってしまうぞ、……って聞いておらんか」


 目の前でベルにエンガワをうまそうに食われつつ、組み立てと解体を繰り返す。

 完成形の見た目にばらつきはでるものの、確かに青の消しゴムに関しては、形状を問わず十七個あれば「ヒラメ」だけは組み立てられるようだ。

 ただし──、と朱理は赤い消しゴムを一個握り込む。


「そういうことか……」


 腹一杯寿司をたいらげたベルはいつの間にかソファに移動していびきをかいている。


「知らないわけがないんだ、


 プールに落とされた消しゴム。それは合計十九個しか回収できなかったと、瀬戸裕也は強調して言っていた。なぜ、も含めて十九個とは言わなかったのか──。

 赤い消しゴムはちょっと力をこめて擦り付けると、簡単に折れた。


「……迷っている時間はない、か……」──朱理は首に手のひらを当ててうなだれる。


 果たして殺してもいい相手なのかと自問自答するうちに朝日が昇る。

 うなじの黒い歯車が、あと数日の命を示して薄くなった。





 捜査員が引き上げた学校はいつものけんそうを取り戻している。

 朱理は正門に寄りかかって、生徒の下校を見送っていた。


『あの胸のでかい女と随分長く話し込んでいたな』──肩にとまっている蠅が嗤う。

「あぁ、……ちょっとな」

『EかFはあるな。サイズは何カップか訊けたか?』

「そんな話はしていない」


 あれから朱理は鈴城恵美に連絡を取った。一方的に捜査から外された彼女は、しつけに電話をかけてきた相手に不満を漏らしながらも渋々情報を提供してくれた。

 一年前──瀬戸裕也は美術部を強制退部になっている。

 それ以来、美術室は施錠されるようになり、美術部の部活動以外では使用されなくなったという。美術室の鍵を持っているのは顧問の教師と美術部の部長のみだ。

 だが三件の不審死があったとき、鍵は開いていた。もちろん恵美たちは顧問の教師と美術部の部長に鍵の使用があったかを確認したが、と答えたという。


「あ……、こ……こんにちは」


 朱理の姿に気づいたひとりの生徒がぎくんと足を止めた。

 瀬戸裕也だ。担いだ鞄の取っ手を握りしめ、背中を丸めた。その手は震えている。


「すこしいいか?」

「な、なんのご用ですか……?」

「キミに確認したいことがある」


 彼は観念したかのように表情を硬くし、ごくんと唾を飲み下す。


「……じゃあ、この前の公園で……」


 そう囁くように告げてサッと校舎を振り返る。朱理もつられて彼の視線の先を追った。大きく亀裂が入った窓に目をやった彼は、朱理もおなじ窓を見ていることに気づき「行きましょう」と足早に公園に向かった。


 ──あの窓がある教室は……。


 その瞬間、まるで闇が降りたように、ふっ、と学校全体が静まりかえった気がした。

 下校する生徒の数がまばらになったせいもあるかもしれない。そしてあの場所では、忌まわしい死が連続しているという先入観がそう思わせた可能性もあった。



 公園には相変わらず人けがなかった。

 豊かに青々とした葉を揺らす木でセミが鳴いている。


「ボクに確認って……なんですか……?」


 ヒヨコの乗り物に腰を落ち着けた瀬戸裕也は、長い前髪で自分の顔を隠すように俯く。組んだ両手は緊張しているのか激しく震えていた。


「……あの消しゴムはまだ持っているのか?」

「え?」──意外な質問だと思ったらしい瀬戸裕也が驚いて顔を上げる。

「お魚さんの消しゴムですか?」

「あぁそうだ。もう一度見せてくれ」


 戸惑いながらも瀬戸裕也は鞄を開けてシリコンペンケースを取り出す。朱理はその間にそっと両手に黒い手袋をはめた。彼はその両手に「どうぞ」と小さな消しゴムを出してきた。あかにまみれた組み立て消しゴム。やはり──と、朱理は数えて目を眇める。青い消しゴムが十七個、赤い消しゴムが一個で、合計だ。


「これでキミが回収できた消しゴムは全部か?」

「は、はい……」

「キミはこれでヒラメを組み立てられるから未だに宝物として持ち歩いているのか」


 すると瀬戸裕也は肩を跳ねさせた。


「え……知ってるんですか」

「最低あれば組み立てられるのはヒラメだけだ」

「はい、そうです。だからボクはそれだけでも充分遊べるから宝物に──」

「十八個しかないが?」


 ニキビだらけの頰が引きつった。

 朱理が探るように目を合わせると、彼はばつが悪そうに目を逸らした。


「赤い消しゴムが一個足りない」

「ぼ……ボクの記憶違いだったかもしれません……十八個だったかも……」

「キミはずっとだと言っていた」

「じゃあ、あの……、鈴木にばらまかれたとき、一個落としたかも……」

「俺が『全部拾えたか?』と尋ねたら、キミは数えて『大丈夫』と答えたな?」

「……あ……」──思い出したのか顔面から血の気が引いていく。


 その反応が、ある推察を肯定する。瀬戸裕也は消しゴムをプールに捨てられた日

「ヒラメ」を組み立てられる必要最低限の、青い消しゴム十七個と、赤い消しゴム二個の、合計十九個を確かに回収した。しかしなんらかの事情で彼は「ヒラメ」の目になる重要な赤い消しゴム一個をある人物に預けている。だから彼の認識では全個数は十九個だが、実際には十八個しか手元になくて『大丈夫』なのだ。

 朱理は口が開いたシリコンペンケースの中に消しゴムをぱらぱらと注ぎ落とした。


「深沢秀一がこれとおなじ赤い消しゴムを持っていた。そして彼は、美術部の部長だ」

「っ……」──瀬戸裕也の肩がぎゅっと縮こまった。

「一年前にキミは美術部を強制退部させられている。それ以降美術室は施錠することになり、鍵は顧問の教師と部長のふたりが持っていた。……深沢秀一とキミは、どうもただのクラスメイトではないようだ」


 彼は青紫の唇をけいれんさせて、ゆっくりと瞼を下ろしていく。


「キミたちの関係は共犯か?」

「……いえ……、……違います」


 遠くで山手線が走っていく。

 あかねいろに染まっていく空を、薄い雲が覆い始める。


「一年前」


 少年は重い口を開く──。


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