第二章 僕は世界でたったひとり(8)


 真横を数分間隔で山手線が走っている。目白駅を素通りし、たかだの方面へ下る。

 瀬戸裕也はぴたりと足を止めた。高層マンションの一階駐車場では幼い子どもたちが走り回っていた。買い物袋を提げた母親らしき女性に呼ばれ、子どもたちはマンションのエレベーターに向かって駆け出していく。

 学校の外で話していいですか──瀬戸裕也はそう言ったのだが、実際、学校からかなり離れてからやっと口を開いた。それまでは足元を見ながら歩いて押し黙っていた。


「……ボクのお父さんはもう何年も無職なんです。部屋にこもったまま、出てきません。でもマンションのローンを払わなきゃいけないから、お母さんがパートで働きに行っています。って言っても、机のメモ帳にそう書いてあっただけなので、本当にそうなのかはわかりませんけど。うちはメモ帳を介してでしか会話をしないんです」

「それは……おかしいとは思わないのか?」

「いろいろ訊いちゃだめなんだろうなとは思ってます。お父さんはきっと嫌な思いをしたから会社を辞めたんだろうし、お母さんは毎日朝から晩まで仕事で疲れているだろうし。なんか大人って、いろんなしがらみがあって大変なんだろうなって思うから」

「キミは──」


 我慢強いんだな、と言いかけてやめた。

 彼は我慢をしているわけではない。諦めているのだ。先人たちによって定められた、たくさんのルールに縛られたこの世界では、彼は自分は非力でなにもできないということを悟っている。彼は頭がいい。なにもできない子どもだからこそ、両親にはなにも訊かないという態度を示しているのだろう。


「よくイジメられたら『逃げたらいい』って大人たちは言うじゃないですか。自殺するぐらいなら逃げろとか、まるで自殺した子どもが悪いみたいに言いますけど──」


 やがて電車の行き交う音だけが残った。


「──逃げ場所がなかったから自殺するしかなかったのかなってボクは思います」


 都会はうるさいのに、彼の周りは静かだ。


「キミも自殺を考えたのか?」


 夕焼けに照らされた横顔は暗い。


「考えました。でも自殺するとたくさんの人に迷惑がかかります。特に、両親には……だったら生きて地獄のほうがいいのかな、とか。だって大人たちは子どもたちに将来の納税を期待するわけじゃないですか。日本って少子化が問題になってるし」

「いまから納税のことを考えているのか。子どもらしくないな」

「あはは、そうですね」


 引きつった笑顔も十三、四歳の子どもがする表情とは思えなかった。

 ニキビが潰れて荒れた頰だけが、彼をなんとか中学生に見せていた。


「あぁそういえばさっきのお魚さんの組み立て消しゴムは、ボクが小さいころにおねだりしてお父さんに買ってもらった最後の誕生日プレゼントなんです。だいすきでずっと持ち歩いてました。授業中に先生の目を盗んで組み立てるのが楽しいんですよ」

「だがブロックの半分はなかったな。残りは家にあると言っていたのは噓だろう?」

「……はい」


 瀬戸裕也は俯いた。


「殿岡、松田、山本、鈴木……」


 なだらかな下り坂を並んで歩く。


「屋上に呼び出されて、ほとんどあいつらに捨てられました」


 俯くのはつらいことを思い出したときの彼の癖らしい。履きつぶして灰色に汚れたスニーカーの靴先に目をやっている。



   ちょうど下にプールがあるぜ。

   お魚さんは水槽に戻してあげましょ~ね~?

   それ淡水魚じゃねぇだろ、ギャハハハッ!

   うわきったねぇ~、あんなのプールじゃねぇよ。



「いそいで駆け下りてプールに飛び込みました。こけと虫の死骸だらけの水は冷たくて、臭くて、潜ったら全身に纏わり付いてきて、手探りでかき集めて……。でもプールに無断で入ったのを先生に見つかって怒られたんで、しか回収できませんでした」

「先生には事情を説明しなかったのか?」

「どんな事情だろうと、使用禁止のプールに無断で入るのはダメだ、って」


 そうか──と朱理はに落ちる。教師は、彼がプールに入らなければならなかった理由を聞かずに、無断でプールに入った事実を罰することしか頭になかったのだろう。

 彼はまた唇をきつく嚙んで、鞄を握る手を震わせた。


「最後には……たかが消しゴムだろう、って……鼻で嗤われて……」


 口元は笑っているのに言葉が涙で掠れていく。


「そうかもしれないけど……ボクにとっては宝物だったんです。そう訴えても先生は、そんなのまた買えばいいじゃないかと言いました。でも他のお魚さんじゃダメなんです。お父さんが買ってくれたお魚さんだから、ボクの宝物なのに」


 電車の音が遠くなった。閑静な住宅街を抜けて、遊具がひとつしかない公園に行き着く。かつては砂場もブランコもあったのだろうが、それらは撤去されていて、痕跡が残るだけだ。座板と鎖が外されて立っている、錆びたブランコの支柱がわびしい。いまどき揺れるヒヨコの乗り物しかないつまらない公園で遊ぶ子どもはいないようだ。

 瀬戸裕也は公園内に入り、ヒヨコの乗り物に手を置いた。


「制服とかコインランドリーで洗って、乾くまでここにいました。コンビニのトイレでトイレットペーパーをたくさんもらってきて、汚れた消しゴムを拭いて……」


 カラスが鳴きながら上空を飛んでいく。


「そうしていると……あのブランコは、首を吊るのにちょうどいいなと思ったんです。なんか踏み台になるものとか、ロープとか持ってきたら良さそうじゃないですか?」


 朱理は立場上、肯定も否定もしなかった。

 ほぼ無反応に等しい朱理にぎこちない笑みを向けて、瀬戸裕也はヒヨコの乗り物に寄りかかる。まるで神にでも祈るかのように膝の上で両手指を組んだ。


「ボクはいつ自殺してもいいと思ってるんです。死ぬのは怖いとも思いません。それがたぶん一番ラクになれる方法だと思うんで。でもボクが生きていることで救われている人もいる……ボクがまだ生きている理由って、その程度なんでしょうね」


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