第二章 僕は世界でたったひとり(6)
†
二年一組の
席替えの話が出ると、誰がなにを言うでもなく、暗黙の了解でいつもその席になった。空調の風は届かず、夏は暑くて冬は寒い。近くを人が通るたびに埃が舞う。七月も後半にさしかかり、むわりと蒸し暑い熱気が廊下から伝わってくる。
他愛もない談笑が、くぐもったクラクションの連続みたいに、耳の奥で反響していた。
誰も彼の話をしていない。
誰も彼に声はかけない。
「おいおまえら、遊んでないでプリントまとめて持ってこいよ」
「はーい」
「つぎ特別授業だから、おまえらサボんなよ」
「はーい」
担任の教師が言う『おまえら』には、彼の存在はなかった。
無数の傷がつけられた机の上で、瀬戸は「イジメに関するアンケート」というプリントと向き合っていた。先月、このクラスの殿岡と松田が学校内で死んだらしい。先週は山本が死んだらしいと担任の教師は言った。
なんで死んだのかとか、どうやって死んだのかとか、具体的な話はなかったけれど、クラスメイトたちは──イジメを苦に自殺した──と噂している。たぶん先月配られたこのアンケートのせいだ。皆配られてすぐに書き、学級委員長が集めて既に生徒指導員に提出している。けれどこうして瀬戸のプリントだけが回収されていない。
イジメられている人を見たことがありますか。
──はい。
その項目以降を瀬戸は書けずにいた。アンケートは匿名だが、字を見れば誰が書いたのかは一目瞭然だ。こんなものをばか正直に書く生徒はいるのだろうか。そもそもこのクラスにイジメというものが存在していること自体、認知されているのかも疑わしい。
彼はシャープペンシルを握る手に力を込めた。
──ボクらは小さな魚だ……。
この狭い学校という水槽の中で、魚たちは群れて生活することを強いられている。その群れから外れて漂う一匹の魚にいったいどれだけの魚が気づいているのだろう。
だからこんなアンケートになんの意味があるのか、と瀬戸は思っていた。
「ハロー、エブリバーディーッ!」
前方の扉が勢いよくバァンと開け放たれた。教室内に一時の静寂が訪れる。
金髪に青い目の見目麗しい男性が、軽やかな足取りで入ってきた。胸元に「侍」とデカデカとプリントされた真っ白いTシャツに淡い水色のジーパン姿だ。一瞬にしてクラス全員の脳裏に、日本かぶれの外国人観光客というイメージがよぎった。その後に続いて、バインダーを脇に抱えたスーツ姿の暗い雰囲気の男性がやってきた。
「ドゥーユーセイッ、ハロー? ヘイ、そこのお嬢さん、ハロー、アハン?」
机に尻を置いて
「は……はろー……」
彼女は呆然となりながらそろりと机から降りた。
どこからともなくキャアと黄色い声がした。反対に、男子の反応は薄い。
「ギリシャから来た留学生のベル・アンダーソンだ。日本の倫理観を研究している。留学生だから日本語はつたないが──」
抑揚のない掠れた低い声で、死んだ魚の目をしたスーツ姿の男性が隣で喋る。
「つたなくはないぞ」
「つたないことにしておけ、そういう設定だ」
「ギリシャの公用語は英語ではないのだが」
「中学生にギリシャ語は難易度が高い。英語を喋るギリシャ人という設定にしろ」
「オーライ、そういう設定だ、さぁ特別授業を始めよう。よろしくジャパニーズ?」
ベルとかいうギリシャ人の男性は、主にクラスの女子に向けてウィンクを飛ばした。
まるでタイプの違うふたりの美形を前に、いつもは授業中ですらまともに席につきもしない生徒たちがおとなしく着席し、
とある女子がおそるおそる手をあげた。
「あのー、そ、そちらの方は……?」
「ん? ……俺か?」
ちらりと目を向けられた彼女は、頰を染めてこくこくと頷く。
「通訳の一之瀬だ。俺のことはどうでもいい。こいつ……じゃない、ベルさんの質問に答えてやってくれ」
そう言って一之瀬という男性はゆっくりと生徒たちの机の間を歩いていく。
「そうだな、まずはユーたち、ジュニアのスゥイート・ラブについてクェスチョン」
指された生徒たちはなぜか彼に合わせてたどたどしい英語で答える。そのたびにオーバーなリアクションで、ベルは喜怒哀楽を示した。いっぽうで一之瀬という男性は通訳と名乗っておきながら別段口を挟むでもなく、端から端まで、コツコツと生徒たちの机の間を歩いていた。クラスメイトたちはベルのユーモア溢れる質疑応答に夢中だったが、瀬戸だけはずっと伏した格好で一之瀬の動きを追っていた。
──あの人……ボクらを観察してる……?
全員がベルの
──誰もあの一之瀬って人を気にしてないのか……。
「はははベリーナイス! ネクスト、ユーたちにとって『デス』……死とはなにか」
死──。いまこのクラスで連想される「死」はただひとつだ。見て見ぬ振りをしていた生徒たちの顔色が変わり、笑い声で満ちていた教室がシンと静まりかえった。
「キミはどう思う」
それは急だった。一之瀬はよりにもよって、瀬戸の机に手を置いた。
ニキビまみれの顔を上げれば、視界は無表情のクラスメイトたちでいっぱいになった。教室じゅうの目という目が、ぎょろりと瀬戸に向いている。全身の血液が一気に下がった。
「死……ですか……」
腕の下に敷いたイジメに関するアンケートがくしゃりとなった。
「わ、……わかりません……」
「そうか」
すっとアンケート用紙の端を摑まれる。驚いて思わず腕を浮かすとアンケート用紙は抜き取られ、机全面にカッターでこまかく刻まれた『死』の文字を見下ろされた。
「その机……」
「あ……」──慌てて隠そうとしても呪いのような文字は身体から漏れていく。
絶望の表情で見上げると、漆黒の瞳が胸のうちを探ってきた。
「キミからは個性的な答えが聞けると思ったんだがな」
「……僕は『死』は始まりだと思います」
最前列の席の
「始まり? 死は終わりじゃないのか?」
「自分に置き換えるとそうなりますが……他人の死は、人間にとって節目になります。たとえば身近な誰かが死んだとして。後ろ向きになって悲しんだり苦しんだりするより、その死を意味あるものと捉えて、前向きに
「死を前向きに捉えるその意図はなんだ?」
「声をあげるよりずっと効果的に社会へ訴えるためです。たとえば、そうですね。閉鎖空間の中で隠され、容認され続けた特定の人間へのイジメって、当事者が死んだらようやく明るみに出たりしますよね」
「それはイジメを苦にした自殺行為を肯定しているのか」
「問題提起にはなります。イジメられていることを誰も信じてくれなくて、助けてくれないのなら、死をもって苦しみを理解してもらう行為は意味があることですよね」
「十四歳かそこらの子どもが考えることじゃないな」
「子どもは大人が想像しているよりずっと考えていると思いますよ」
誰もがぴりっとした空気を感じたと思う。
不自然にみっつ空いた机に、全員の意識が向く。首を吊って死んだ三人の机だ。
けれど瀬戸だけは伏せながら別のものを見ていた。窓際の席で、派手な髪型をした、そばかすまみれの男子が唇を震わせている。
──あいつはわかっているんだ……。
──深沢が言う意味のある死の真意を。
パン、と手を叩く音で皆が我に返る。
「オーケーオーケー、それもひとつのアンサーだな」
ベルが手を叩いた拍子にちょうどチャイムが鳴った。
「そう怖い顔をするな通訳ボーイ。生徒たちが怯えているぞ」
「……いまから紙を配る。一言だけでいい、特別授業の感想と名前を書いて教壇に置いてから帰るように」
一之瀬は生徒ひとりひとりの机に白い紙を置いてまわった。
大抵の生徒はさらさらと「楽しかった」だの、「興味深かった」だの、当たり障りのない感想を書いたらしい。彼らは流れ作業のように教壇に紙を置いて教室を出ていった。ベルの周りには女子生徒が群がっていた。彼は女子生徒たちの肩を抱いたり、スマートフォンを出して連絡先を交換したり、まんざらでもない対応をしている。本当に倫理を学ぶために日本に来たのか怪しい。
瀬戸は紙になにも書けず、血走った双眸で深沢の背中を見つめる。
いっぽうで深沢は熱心になにかを書いていた。書き間違えた箇所を、ちぎれて小さくなった赤い消しゴムで消す。その深沢の手元を通訳の男がじっと見ていた。
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