第二章 僕は世界でたったひとり(4)


 JR山手線目白駅を降りる。ツワブキの若い葉が夕陽に照らされていた。

 身なりの良い生徒たちが下校していく。白いシャツの襟には上品な藍色の線が入っており、胸元には金糸で縫い付けられたはとの校章が見える。名門私立・かみやま学園の制服だ。偏差値は都内トップクラス、学費も高額で初年度費用だけでも百五十万円は軽く超える。そこに教育推進基金という上限なしの任意寄付金が乗るため、相当な金持ちの家でなければ通うことは難しい中学校だ。

 その横を、真っ黒なスラックスに黄ばんだシャツ姿の男子たちが、大声を出しながら駆けていった。

 上山学園の生徒らは、彼らを見てひそひそと顔を寄せ合った。通り過ぎていった生徒たちを蔑んだ目で見送る。白い学生服の彼らと、黒い学生服の彼らはともに中学生。ほぼおない年だ。しかし彼らはまったく違う世界を見ながら生きている。親の資本の都合で、「私立」と「公立」というある種の格差をつけられているのだ。

 彼らは十代前半にして既に、教育の質は金であることを敏感に感じ取っていた。


「この年代の子どもは特に親の写し鏡だな」


 ベルは皮肉っぽく言った。

 そんな子どもたちが下校する方向とは逆に、朱理たちは目的の中学校を目指した。

 純白のペンキが塗られた美しい私立上山学園の前を通過した。隣接する目白警察署を挟み、赤茶けた古めかしい校舎が見えた。


「……窓ガラスが割れている……?」


 見上げると、大きな亀裂が入った窓ガラスにガムテープが貼られていた。


「ほぉ、これは随分とまがまがしい」


 なにか感じたらしいベルが愉快げに鼻を鳴らす。

 区立じろざか中学校。目の前にバス停が用意されて駐車場も守衛室も備えた私立上山学園とはまるで雰囲気が違う。ろくに整備の手が入っていないのか、校庭は雑草だらけで一歩踏み出すたびに砂利とともに野草を踏む感触がした。


「どちらさま?」


 正面玄関に向かおうとした朱理たちを、はつらつとした女性の声が止める。

 振り返ると、長い黒髪をひとつに束ね、明るいグレーのスーツ姿の女性が立っていた。大きな胸を支えるように腕を組んでいる。化粧っ気がなく、見るからに勝ち気で性格がきつそうな顔立ちだった。


「あら? いまもうひとりいた気がしたけど……」──彼女は周囲を見渡す。


 金色の蠅が朱理の背中にとまっている。間一髪でベルを見られずに済んだようだ。


「警視庁猟奇殺人事件特別捜査課の一之瀬朱理です」


 朱理は警察手帳を見せた。そちらではなく胸元の黒い丸バッジに視線が注がれるのを感じる。すると彼女はちょっと驚いて目を瞬かせた。


「驚いた。奇特捜って問題児の追い出し部署って聞いてたけど、あなたはまともそうね。アタシは目白署の鈴城。四十歳、生涯独身って決めてるから女扱いはしないでちょうだい。あなたアタシより年下でしょ。一之瀬くんでいいわよね?」

「どうも……」──随分元気な女性だと思った。

「アタシたちは自殺だっつってんのに、事をでっかくされて嫌ァね。あぁアタシはね、部署はともかくの人間は誰だろうと大嫌いなの。できるなら早く帰ってね」


 彼女は思ったことはすぐ口に出す、表裏の無いさっぱりした性格らしい。

 捜査員の腕章をつけた人間から差し出された手を握らないわけにはいかない。朱理がそっと触れると「冷た!」と手を引っ込められた。


「うわびっくりした、七月とは思えない冷たさね……低体温体質?」

「……で、現場はどちらですか」

「人の話聞いてた? あなたもしかして世間話とか苦手なの? まぁいいわ、ついてきて。三人目のホトケはまだそのまんまなの。歩きながら話すわ」


 恵美は大股で歩き始める。玄関で朱理が持参のナイロン足袋をはめようとすると、彼女は「そんなのいいわよ」と手招きした。見れば彼女は来客用のスリッパをはいていた。──本庁一課と所轄の意見が違う──、神楽坂課長に言われたことを思い出す。


「捜査資料は見たわよね」

「はい」

「オーケー、じゃあ詳細は省略。現場は二階の美術室内よ。先月からこれで三人目ね。ざっくり言っちゃうと三人ともよ──こんにちは、気を付けて帰ってね」


 通りがかった生徒にニコリと微笑む恵美。肘でつつかれたので、朱理も思わず小さく頭を下げた。生徒は見知らぬ大人たちの存在に不安そうな顔をして去っていった。


「……あのねぇ、同級生たちが死んで子どもたちはピリピリしてるのよ。教職員じゃない大人が出入りしてるだけでストレスなんだから愛想良くしなさいな」

「はぁ……」


 学校で既に三人も死んでいて、そんな中で愛想の良い大人が出入りしていたら、むしろ不気味じゃないだろうかと朱理は思った。

 階段をのぼって左に折れると、奥のどん詰まりはビニールシートに覆われていた。


「市民に尽くすのが警察官の仕事よ。穏便に済ませることもね」

「それでそちらが自殺と判断した理由は?」

「あなたさっきからアタシの話をぜんぜん聞かないわね……所詮は所轄の女だからって舐めてると、その細っこい身体ごとへし折られて帰ることに──」

「鈴城さんが優秀なのは理解しました。警察官の在り方については、俺も同意見です。ですが俺は奇特捜の人間なので猟奇殺人の捜査以外は俺の仕事ではありません」

「あ、そ……。猟奇殺人専門ねぇ……アタシらとやることなにが違うってのよ」


 興味津々にじろじろと見上げられたが、朱理は気にせず両手に手袋をはめた。

 ブルーシートをめくると美術室の入り口が開けっぱなしになっていた。恵美が言うように現場は少人数でありながら慌ただしく、この事件を迅速に、かつ穏便に済ませたいという空気が漂っている。

 美術室の中央には首に長いロープを絡めた中学生らしき生徒が横たわっていた。死んでから間もないらしく、顔色はまだかろうじて人間のそれをしている。木の椅子は散乱し、おなじく木の机も倒れ、美術の授業で使う画材もぐちゃぐちゃだ。これを争った形跡と考えるのは早計かもしれないと思い、朱理は慎重な足取りで遺体に近づいた。

 両手を合わせて膝を曲げる。

 衣服の乱れはない。両爪には皮膚片らしきものが付着しているが、恵美いわく、簡易検査の結果は本人の皮膚片だそうだ。首が絞まる苦しさに耐えかねて引っ搔いたのだろう。確かに首には多数の引っ搔き傷が見受けられる。


「踏み台になる椅子もあるわ。天井に打たれた釘に、ちぎれたロープの残骸もあるし、自殺とみていいんじゃないかしら」

「釘……ですか」──朱理の眉がぴくりと動く。

「正確な名称はヒートンっていうのかしらね」


 見上げれば天井にはぽつぽつとかぎ状の釘らしきものが打たれている。遠くから見る限りだが、ここ最近付けられたものではない。錆びた色をしながらも、太くて頑丈そうだ。


「古い学校ってああやって壁とか天井にいろんなものが打ち付けてあるわよね」


 特にめぼしい情報もなさそうなので朱理は視線を遺体に戻した。


「体格のいい生徒ですね」


 うっすらと日焼けして焦げた肌は、生前の健康体をあらわしている。屋外スポーツの部活動でもやっていたのだろうか。下は学校指定の黒いスラックスだが、上は白のシャツではなく派手な黄色のTシャツだ。髪の毛の一部には緑色のメッシュが入っている。


 ──素行のいい生徒ではない……か。


 朱理はどことなく違和感を覚えた。


「いまの中学生で身長百七十センチ超えなんて珍しくもないわよ」

「で、遺書は?」

「ないわ」

「ない……? 三件ともですか」


 恵美はそうくると思ったとでも言わんばかりに、大きなため息をついた。


「えぇそうよ、三件とも。全員ここ美術室で首をっていたわ。現場はこれだけ荒れてるけど、誰かと言い争っていたとか、目撃証言は一切ないから事件性は薄いわね」

「遺書のない自殺は変ですが」

「んー……もしかして学校の怪談的な呪い……の可能性もあったり、とか?」

「学校の怪談?」

「だってこの学校古いもの。幽霊とか出そうじゃない?」

「幽霊の仕業ですか……」──朱理は立ち上がった。膝に白い粉がついていた。


 せつこうの粉だ。掃除が行き届いていない美術室の床は、粉と埃が積み上がり、不自然なほど白かった。死んだ生徒の足跡は強く引きずられたかのように、入り口から曲線を描いている。

 幽霊……あながち間違ってもいないかもしれない、と朱理は真剣な眼差しを向けた。じっと見つめられた恵美がハッとして一気に顔を赤くする。


「じょ、冗談よ! そんな目で見ないで!」

「いえ……俺はなにも……」

「幽霊なんているわけないわよ。否定しなさいよ、恥ずかしいじゃない!」

「……本庁とは方針が違うそうですね。なぜですか?」


 話を逸らせば、恵美はころりと表情を変える。彼女の眉間に深い皺が寄った。


「一之瀬くん、ここがどこだかわかるわよね」

「美術室……中学校ですね」

「そう、学校よ。学校側はこの件を自殺にしたくないの。もちろん殺人事件なんてもってのほか。隣の名門私立と比較されてただでさえ肩身の狭い公立学校だからでしょうね。教育委員会っていうの? からお達しがあったそうよ。つまり学校側は──」

「これは事故ですよね!」


 しゃがれた大声が美術室の外から聞こえた。


「チッ……あいつらまだいるのか。校長には構うなっつってんのに!」


 恵美は忌々しげに舌打ちを落として身を翻す。

 彼女に続いて現場を出れば、朱理も見知っている本庁捜査一課の中堅面子が、青い顔をした中年男性を囲んでいた。


「ちょっとアンタたち! いまこっちは立て込んでんだから……っ、え?」


 嚙みつきかけた恵美の肩を、朱理は摑んで後ろに引かせた。


「失礼」──急に触ってしまったことに朱理は謝罪する。


 彼らの視線が一斉に朱理の胸のバッジに向いた。


「お、おまえ、奇特捜の一之瀬……」


 かつての先輩たちが顔を見合わせてまごつく。


「本件は奇特捜案件になりました。あとは俺が引き継ぎます。お帰りください」


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