第二章 僕は世界でたったひとり(3)



 朱理は替えの白シャツを羽織り、すぐにでも出勤できるようスラックスを履いて革のベルトを締めた。もとより細身な体型だったが、ベルトの穴を最小まで短くしてもスラックスはずり落ちてくる。使い込まれたH型のサスペンダーを肩に回し、留め具をパチンと鳴らす。かさついたバスタオルで髪を搔き回して水気を取りながら居間の扉を開けると、途端、軽快なラッパ音が大音量で響いてきた。


「ベル、またか……うるさいぞ」


 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。壁時計を見やれば、まだ朝の四時半だ。

 金髪碧眼の青年は三十二型テレビの前のソファに寝そべり、砂浜を白馬で駆け抜けるベタな時代劇に夢中だった。


「おい聞いてるのか、せめて音量を下げろ。……おい」


 すっかり画面に釘付けになっているベルは朱理の注意に応えない。さすがに近所迷惑だと、朱理は険しい顔つきでガラステーブルの上にあるリモコンを取った。

 プツン、とテレビの電源を切ると、ベルが「アーッ!」と叫んで跳ね起きた。


「まだオープニングではないか!」

「こんな時間に観るなと言ってるだろ、昼間に観ろ。どうせ録画してるだろ」

「愚か者! 貴様は『リアタイ』の楽しさを知らんのか!」

「知らん。どうでもいい」


 リモコンを没収してダイニングテーブルの上に置く。

 ベルはぶつくさ文句を口にしながらも、以前キレた朱理にリモコンを隠された苦い経験を思い出したのか、リアタイとやらを諦めたらしい。フンと唇を尖らせて朱理の横をすり抜け、冷蔵庫前でしゃがみ込むと中を覗き始めた。


「暇だ、メシでも作るか」


 魚肉ソーセージをいて食べながら、ベルは冷蔵庫の奥に手を突っ込んでいる。

 好きなときに食べる、寝る、遊ぶ。欲望のおもむくままに行動する彼は、人間の朱理よりもずっと感情豊かだ。時折どちらが人間でどちらが悪魔なのかわからなくなる。

 朱理はスマートフォンの画面を一瞥し出動要請が入っていないのを確認すると、台所に放りっぱなしにしていた錠剤のシートを口にくわえた。ガラスのコップに水道水を注ぐ。医師からは服用は一回一錠までときつく言われている睡眠導入剤を、躊躇することなく三錠、手のひらに転がした。そこに日本ではまだ認可されていないアメリカから直輸入した入眠剤と精神安定剤を二錠まぜる。それらをぐいと口内に放り込んだ。

 明らかに身体に悪い異物を察知した脳が拒絶反応を示して、ぐっと酸っぱいものがこみ上がってきたが、朱理は口にすこしの水を含み、無理矢理嚙んで喉奥に流し込んだ。


「そんな毒物でしても、寝たとは言わぬぞ」

「……」──朱理は無言でコップをシンクに置いた。

「くだらんことをごちゃごちゃと考えておるからそんな毒物に頼るのだ」

「寝られればいいんだ」


 睡眠は、最低限の体力さえ回復すればそれでよかった。

 寝室に行くとほとんど使っていないからか埃のにおいがした。

 首にタオルを引っかけたまま、朱理は倒れ込むようにどさりと横になった。

 台所ではベルがなにか料理を作る音がしていたが、妻のそれとは違って乱暴で、心地よい子守歌にはなってくれなかった。うるさいと思い布団を頭からかぶって耳を塞ぐ。

 今日も薬が効いてくるまでの時間が、あまりにも長く苦しかった。



   ……、……あなた……。



 しばらくすると、ベッドサイドに手を繫いだ妻と娘が立っている気がした。

 朱理は丸めた背中で、その幻影を感じる。



   ねぇ……あなた、早くこっちにきなさいよ。

   なんでパパだけ生きてるの?

   そうよね真由、わたしたちずっとさみしいわ。

   痛いよ、寒いよ。助けて、パパ。

   どうして早く帰ってきてくれなかったの。

   どうして?

   噓つき。

   うそつき。



   なんで一緒に死んでくれなかったの。



「……っ、……ぅ……」


 ふたりの突き刺すような幻聴が脳裏で響く。

 目を閉じればいつだって彼女たちは手招きをしてくる。


「まだ……行けない……、……ごめん……、……な……」


 薬が全身にまわり、混濁していた意識がようやく薄れてきた。

 そしてふたりの影は静かに闇の中に溶けていくのだった。


「──おぉいシュリよ!」

「ん、ぐ、重……っ……、な……なんだベル……」


 ようやく眠れたと思ったら腹の上にのしかかられた。朱理は布団からのそりと顔を出す。「こいつが鳴っておったぞ」と、にやついた顔でスマートフォンを眼前に突き出してきた。一瞬のような睡眠は、実際には十二時間を超えていた。もう夕方の五時だ。

 いつもなら肌身離さず持っているスマートフォンを、うっかりリビングに置き忘れて寝てしまったらしい。ため息をついて起き上がる。

 奇特捜の番号からの着信時刻は一時間前だ。


「一時間前じゃないか……鳴っているときに起こせ」

「持ってきてやっただけありがたく思え。そいつが鳴ったせいで大暴れ将軍スペシャルの再放送に水をさされたのだ。まったく、たたき壊してやろうかと思ったぞ」


 朱理は不機嫌にベルの手からスマートフォンを奪ってかけなおした。肩と耳でそれをはさみ、開きっぱなしだったシャツのボタンを留める。


「……あぁ、一之瀬です。課長は?」


 相変わらずそっけない応対で健一が電話に出た。取次の言葉もなくすぐに保留音が流れて、神楽坂課長の内線電話に転送される。


『非番の日にすまないね』

「俺は構いません。奇特捜案件が入りましたか?」

『それが……本庁はそうしたいと言っているが、所轄の意見は違う』


 珍しく神楽坂課長が言いよどむ。


「複雑な事件ですか?」

『いや、なんというか……おそらくは、だが。中学生の自殺だ』

「自殺……? ウチは猟奇殺人捜査の課ですが……」

『まぁ現場に行ってもらえば双方の主張もわかるだろう。捜査資料は共有ネットワークで見てくれ、佐藤くんがパスワードを送る。あとはじろ署のすずしろ巡査長が詳しく話してくれる。ちょうどいま現場にいるはずだが、向かうのなら一報入れておくが……』

「わかりました、いまから合流します」


 電話を切って素早く身支度をする。


「お、殺人か?」


 いつの間にかエプロンを着けているベルが、フライパンでハムを焼いていた。リビングには香ばしいにおいが漂っている。台所に広げられている材料を見るからに夕飯はサンドウィッチらしい。朱理はそれを横目にネクタイを締めた。


「シュリ、しばし待て」


 彼はフライパンの縁で器用に卵を割り落とす。


「おまえは後で来い」

「まぁ待てと言っておろうが」


 ふんふんと鼻歌を口ずさみながら、ベルはまな板の上に食パンを二枚ならべ、その上にハムエッグを載せた。冷蔵庫からひょいとマヨネーズとマスタードを取って適当に味付けをする。完成したサンドウィッチをぱくんと大口で頰張った。


「うむ美味い。我は料理も天才だな! パンはエネルギーになり、卵は総じて栄養価が高く肉はタンパク質が豊富だぞ。健康な肉体ありきの魂だ、ほぅら貴様も食え」

「……俺はいい、腹は減ってない」

「一口だけでも食っておけば違う。貴様が失神している間にテレビで観たのだ」

「悪魔は健康番組も観るのか──、んむっ」


 ずいと口元に押しつけられたので、朱理はしかめっ面で拒否した。


「これは我の命令だ、吐いても食え。栄養失調なんぞで死んだらつまらんだろう?」


 引き結んだ唇にぐいぐい押しつけてくるので仕方なく口を開いた。朱理がしやくするのを、飼育員のように見つめてくる。「美味いか?」「……」久しく固形物を摂取していないせいか、調味料のにおいだけで吐き気がこみ上げてきた。


「なんだ小さい一口だな。遠慮するな、もっと食え。ほぅらほら!」

「や、めろ……っ、もういらん」

「こら吐くな、飲み込め」

「さっきからなんなんだ。俺はもう行くぞ」


 心とは裏腹に、身体は正直だ。生への執着を拒んでいる。


「トイレで吐くでないぞーっ」

「……悪魔のくせに……」


 朱理は口を手で押さえてなんとか飲み込み、吐き戻しそうになるのを耐えた。


「くく……おまえは本当にからかい甲斐がある」


 残りのサンドウィッチをたいらげ、ベルは親指についたマヨネーズを舐めた。


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