第二章 僕は世界でたったひとり(2)


 あの事件の日、──……俺の帰りはいつもよりすこしだけ早かった。

 神楽坂課長に、この日の夜には家族が誕生日を祝ってくれるんです……と、ついのろけて言ってしまっていたこともあり、気を遣ってくれた課長の取り計らいで現場に行く仕事は任されなかった。事務仕事だけを終えて定時には席を立った。

 だが古巣である捜査一課の課長から、ちょっといいかと呼び止められた。昔、捜査に関わった事件について話しているうちにすっかり遅くなってしまった。

 妻の明日香が計画していた、俺の誕生日パーティー開始の夜七時はとっくに過ぎて、九時をまわっていた。真由がケーキを焼いて待っていることを思い出し、電車に飛び乗る前にいまから帰ると一報入れておこうと電話を鳴らしたがなぜか誰も出なかった。

 約束したじゃない──と、妻に呆れられるのを覚悟し、娘に𠮟られることも覚悟した。

 昨年の誕生日もそうだった。

 一昨年の誕生日も、ずっとそうだった。

 だからたぶん彼女たちは父親の早い帰りを期待せず、眠ったのだろうと思った。

 毎年誕生日パーティーを計画されても結局間に合わないから、翌朝プレゼントを渡されながら𠮟られつつ祝われるのが当たり前になっていたのだ。

 俺はまた今年もやっちまったなぁぐらいにしか思っていなかった。

 玄関の扉を開けると、意外にもまだ明かりがついていた。

 ただいま、と声をかけても返事はなかった。明日香はサプライズを計画していると言っていた。なるほどそうか、クラッカーでも鳴らされるのかと俺はのんきに思ったのだ。ネクタイを緩めながら、あぁ疲れたとリビングの扉を開けたら、そこには……──。

 凄惨な遺体を前にして、俺は普段の冷静さを欠いた。

 物陰に潜んでいた犯人の気配に気づけなかった。

 不意に頸部に激痛が走り、俺はその場にくずおれた。背後から首を切られたと気づいたときには遅かった。うなじを押さえ、這いずって、逃げる人影を追った。

 けれど俺の傷は深かった。太い血管を切られて出血が激しかった。

 マンションの廊下で動けなくなり、俺は死を悟った。

 そのとき俺に囁きかけてきたヤツがいた。ヤツは自分を悪魔と名乗った。俺の傷に触れながら、悪魔としての正式な名前とやらを脳に直接流し込まれ、その名を口にした瞬間、ヤツは『おまえの憎いを確実に食ってやる』と言った。



 ──これは「契約」だ。契約には当然だが条件がある。

 ──おまえのかりそめの命は、今後、殺人者のけがれた魂で繫ぎ止められる。

 ──穢れた魂は我の好物だ。復讐を果たすまで我の空腹を満たし続けよ。



 ……ようやく、重い瞼を持ち上げた。

 時折こうして無念の記憶を呼び起こさなければ、殺すことに葛藤が生まれてしまう。

 湯が流れていく音を聞きながら、薄くなって半分ほど欠けている歯車を指でなぞった。


「そろそろ殺さなきゃな……」──より穢れた魂を求めて。


 鏡の隅で、剝がれかけのカエルが泣いていた。

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