第一章 いつもの道でわたしたちは(8)

 低く掠れた声がオレのすぐ後ろから響いた。

 オレは目玉をぎょろりと横に動かし、肩越しに振り返る。闇夜に溶けるように不気味な雰囲気を纏う男が立っていた。背筋が凍える心地のする濁ったそうぼうと、血色の悪いその顔には見覚えがあった。


「……刑事さん……」

「岡﨑茂明。おまえに聞きたいことがある」

「なんで……」──ここに、いるんだ。

「怖かったよぉ~ベルちゃぁんっ!」


 摑んでいた手の力を緩めると女はだつのごとく逃げた。

 どこからともなく金髪の若い男がするりと姿を見せて、彼女を受け止めた。


「協力に感謝するぞ。怪我はないな?」

「う、うん、ないよ!」

「ならばよい。帰れ、今日あったことは他言するな」

「ベルちゃん、ホントのホントにデートしてくれるんだよね?」

「我は約束を違えぬ、さぁもう行け」


 図ったようにタクシーが一台こちらに向かってきた。女は金髪の若い男を何度も振り返りながら走って行く。刑事は訊いてもいないのに「俺が呼んだ」と告げた。


「あの、なにか誤解してませんか?」


 オレは両手を広げ、つとめて明るく言った。


「そんな怖い顔しなくてもちゃんと警察には事故届を出しますよ」

「……必要ない」

「え?」

「これは事故じゃない。決まった時間に、『いつもの道』を下校する女子大生を狙った計画的な強姦殺人だ。軽微な事故を装い、被害者の怪我を心配する善良な男のふりをして彼女たちを襲った。だが、おまえはあまりにも短期間に事故を起こしすぎたな」

「は……?」──どういう意味だ。


 口元がひくつく。


「ドジな息子がしょっちゅう車を擦ってしまう、高齢の女性はそう言って毎度律儀に車を修理に出しては、なぜか売りに出していた。あのドジな息子さんなら仕方ないね──それは近所では日常化しすぎていて修理工場の人間も不思議に思わなかったそうだ」

「なんの話……?」

「金持ち親子のドジな道楽。その異常だけれども当たり前になっていた日常が、実はおかしいことに気づいた修理工場のある人物から情報提供があった」


 血の通っていないみたいな声で、オレの道化の皮が剝がされていく気がした。


「いつかかならずここに戻ってくると思っていた」

「待ちわびたぞ、殺人者よ。お陰で我の胃袋はあんパンと牛乳で膨れ上がっておる」

「ベル……おまえはちょっと黙ってろ」


 刑事は上着の内ポケットに手を忍ばせた。令状か、手錠か。オレはそのどちらの可能性も想像して思わず屈服しそうになったが、すぐに考えを変えた。この刑事はさっき、オレに『聞きたいことがある』と言ったのだ。おそらく確証があってオレをわなにハメたわけじゃない。そう思えば妙な自信がわいてきた。


「や、やだなぁ刑事さん、ママはそうやってすぐオレのせいにするんだ。なにか悪いことがあると出来が悪い息子のせいにしとけば周りは笑って済ませてくれますからね……。オレが事故ったのはこれが初めてですよ?」


 刑事は表情ひとつ変えず手を引き抜いた。その手には、なにも握られていない。

 やっぱり──と、オレは逃げ道を思い付いて喜びに目を見開く。

 この刑事は早まった。おとりを使って事故の瞬間は捉えたかもしれないが、強姦殺人については証拠を持っていないということだ。だってオレは誰にも見られてはいない。何度も何度も、入念に調べた、ここなら絶対に大丈夫だという場所と時間を見つけた。犯行の目撃者がいたらとっくにその情報は出回っているはずだ。


「ねぇ刑事さん、オレ知ってるんですよ。痴漢えんざいも強姦冤罪も、警察署に出向いたら勝手につくられちゃうんだって。それで泣き寝入りしちゃう男は多いんですって。だからオレは署にご同行はしませんよ」


 刑事は悔しいと思う感情を押し殺しているのだろうか。眉ひとつ動かさない。


「もちろん事故の届け出だけはやっときますよ」


 それじゃ、とオレはさっさと車に戻った。

 運転席のドアを開けてから「あ、」とオレは脳天から高い声を出した。


「根拠も無いのに疑われて傷ついたんで、パパにお願いして弁護士立てますね」


 ぽつんと残された黒い背中が小さく見える。


 ──残念でしたぁ。


「税金泥棒さんは言い訳の準備しといてくださいねぇ」


 滑稽で、つい笑えてきた。

 しかし警察から目をつけられたということは潮時かもしれない。おなじ手口はもう使えないだろう。落ち着くのを待って、自分に向けられたマークが外れた頃合いに今度は違う方法で玩具と遊ぶ方法を考えようと思った。クレープ屋で都内をまわっている限り、女子大生たちの動きは目につくし、嫌でも耳に入ってくるのだから。


「岡﨑茂明、おまえが女子大生連続殺害事件の犯人であることは既にわかっている」

「いやだからそれはさぁ──」

「俺の名刺を覚えているか」

「はぁ? 名刺……?」

「クレープ屋で俺の名刺に吐き散らしたおまえの唾液のDNA型と指紋が犯行現場に残された証拠と一致している。裏にはおまえの直筆の字も添えられている」

「あのさぁ……」


 オレは苛立って奥歯を嚙みしめた。


「なんでそれを最初に言わないの」


 プツンときた。


「訊きたいことがあるからだ」


 オレは、ははっと大げさに笑った。


「訊きたいこと? なにを。殺した理由? 別にそんなの理屈じゃないよ。殺したいと思ったから殺したんだけど、それ以外になにかあると思う? アンタだって虫を殺したことぐらいあるでしょ。そのときなにか高尚な理由でもあった?」


 すっかり道化の皮が剝がれたオレは敬語を使うのをやめた。


「……それが、殺した理由か……」


 刑事は微動だにしない。隣に立つ金髪の男はなぜかにやにやしていて、オレではなく、ずっと横の刑事の顔を見ている。


「まぁ唾液と指紋だってさ、ねつ造しようと思えばいくらでもできちゃうんだよねぇ。あーこれだから警察ってこわいこわい。じゃ、あとは弁護士さんとやり取りして」


 運転席に乗り込もうと中腰になった瞬間、ぞくん──と、背筋を這うものを感じて、慌てて首だけ上げた。刑事は肩越しに、オレに氷のような眼差しを向けていた。

 なにか様子が変だ。やけに静かで、やけに暗い。この黒い闇の中で、なんであの刑事は落ち着いているんだ──据わった目がなんらかの目的をもってオレを見ている。

 不安が勝手にせり上がってきた。かたかたと指が震え出す。


「俺はおまえを司法の手で断罪させるために来たわけじゃない」


 刑事はゆっくりと両手に黒い手袋をはめる。


「殺しに来ただけだ」

「……は、……はぁ?」


 振り返った刑事の上着がめくれて、左脇で鈍く光る拳銃が目に映った。

 まさかそんな、日本の警察が撃つなんてことは──……。


「ヒ……ッ」


 一切の感情を殺したかのような双眸にまっすぐ捉えられ、ぶるりと足がすくんだ。

 徐々に近づいてくるちゆうちよのない気配。まさか、そんな。本当にオレを殺すつもりなのか──と、思わず足がもたつく。

 迫る相手におののいている自分に気づいてしまい、羞恥で顔が一瞬にして熱くなった。


「っ、な、なに言ってんのこいつ……頭おかしいんじゃないの!」


 オレは慌てて車に乗り込んだ。

 途端、刑事が駆け出すのが視界の端に映って怯み、ギアの切り替えが遅れる。


「くそッ!」


 がつんとアクセルを踏み込めば車は急発進した。

 ヘッドライトの光がぎゅるりと孤を描き、シートベルトリマインダーがけたたましい警告音を発する。時速を示す針が一気に振り上がった。


「は……ははっ……」


 オレを殺しに来ただって? そんな脅しに屈するわけないだろ。

 せっかく女を使ってオレを追い詰めたくせに、あの刑事はバカだ。

 詰めが甘くて笑っちゃうね。

 こんな真っ暗で人ひとり通らない場所じゃあ、誰も見て、な、──……あれ……?



 …………誰も、見て……ない……──?



 冷たい予感に頭の中が真っ白になった瞬間、ぐんと伸びてきた黒い手にサイドミラーを摑まれた。「ヒィ……ッ──」息が、止まった。

 全身があわち、毛穴という毛穴から汗が噴き出た。

 オレは混乱してハンドルを握る手を妙な方向にひねってしまい、車体が揺れた。

 がつんという衝撃とともに跳ね上がった身体がボンネットに飛び乗ってきた。


「ひぃぃ!」


 オレが後頭部をシートにしたたかに打ち付けるのと、刑事の肘がフロントガラスを叩き割るのはほぼ同時だった。激しい音とともにの巣状に大きなヒビが入った。

 風になびく長い前髪の隙間から、無機質で残酷な目が見えた。

 ──死──。その連想を植え付けられる。


「うあああああああああっ」


 オレはアクセルをガンガン踏みつけた。

 ハンドルを左右に振って激しく蛇行するが、なかなか振り落とすことができなかった。


「な、な、なんでっ、アンタ、刑事だろ! なんでこんなこと……ッ!」

「貴様が理解する必要はない」

「へっ──、あ、ッ!」──バックミラーには、青い瞳。


 後部座席に金髪の男が座っていた。いつの間に、と振り返る。


「同胞をほふり熟れた黒き魂よ、我の一部となることを悦べ」


 どうして、なんで。

 なにがどうなっているんだ。

 オレは無我夢中で助けを叫んだ。もはや言葉になっていなかった。

 泣きわめき、許しを請い、オレはそこかしこに車体をぶつけながら小高い丘に向かって走っていた。


「ベルゼブブ」


 刑事の唇が動いた。


「……こいつを食え」


 なんと言ったのか聞き取れなかった。

 そしてオレは、ようやく刑事を振り落とすことに成功する。ガラス片を纏いながら黒い影は転がっていった。「は、はは、やった、ははっ」あとは後部座席の金髪の男だ。

 丘の上に着いたら投げ落として始末すればいい、そうだ、とにかく走れ──「はは、はっ」どくどくと脈打つ心臓を静めるためにオレは笑った。

 全身汗だくになりながらフルスピードでカーブを曲がる。

 が、車はなぜかガードレールをぶち破り、オレはゆるやかに空を飛んでいた。



 ──……は、……?



 ふっと時が止まった。吸っても吐いても空気が入ってこない。瞬きが、できない。

 どこまでも果てしない闇の中でオレは立ちすくんでいる。

 オレはなんで、どうして──どこで、どうなったんだ。

 すべての景色は消えて、音も光も一切が遮断されたしんこくにオレはぽかりと浮いていた。誰もいないのにこの暗闇のどこかに誰かがいる。気配がする。あらゆる角度から、あらゆる身体の部分を、無数の観衆から舐めるように見つめられている気がした。

 ここはどこだ。オレを見ているおまえは、誰だ。

 疑問をはんすうしているうちに動けるようになった。けれど走り回ってもその場から移動している感覚がなく、オレが発するすべての音は漆黒に吸われていく。

 そうこうしているうちに上からも下からも、なにか得体の知れないものが、じくじくと迫ってくる気配がした。

 ──……っ!

 直後、ドン、と右足を吹き飛ばされて、オレの身体は闇の上を転がった。



『 お も ち ゃ 』



 脳みそにしみ込んでくるような粘着質な声色は、暗闇が聴かせる幻聴だと無視した。

 いま誰かがオレを轢きやがった、と憤慨して地に手をついたはずが──ガクンとバランスを崩す。オレは倒れ伏した。すさまじい力で上腕を摑まれたのだ。

 どろどろとして、生ぬるいそれは、衣服を貫いてみりみりと腕の肉に食い込む。


『 あ ば れ る な よ 』


 圧倒的な質量がのしかかってきて、無理矢理、仰向けに押し倒される。

 なんだこれは──。おまえは誰だ、なにが起きているんだ!

 悲鳴を上げようとした喉奥にごぷりと液状のものが流れ込む。ぐぅと喉が詰まり鼻呼吸だけが許されたオレは、ふーふーと浅い呼吸で「それ」を見上げるしかできない。


『 こ ー ふ ん す る だ ろ 』


 けらけら。

 けらけら、と。

 オレを上から覆い尽くす巨大な影は嗤い続ける。

 助けてくれ、と頭では叫んでいるのに声が出ない。

 粘ついた捕食者の吐息が鼓膜を舐めるように近づいてきて、気色悪さに肌が粟立つ。激しい拒絶反応で脳がしびれた。身体を貫く痛覚は薄れ、恐怖一色に染まっていく。


 ──やめろオレは女じゃない!

 ──玩具と一緒にするな!


『 ま だ こ わ れ る な よ 』


 逃れようと伸ばした右手の指に、長くて冷たい指が絡んできた。身体をまさぐられ、服が剝ぎ取られた。見開いたオレの目からはだらだらと屈辱の涙が溢れる。


 ──……やめろ、……やめろ……。


 首に巻き付くのは土の匂いがするロープだ。いきなりキツく絞められて殺されると思えばなぜか緩められ、助かったかと思えば油断をあざわらうように食い込んでくる。

 けらけら、けらけら。けらけら──……気絶の寸前を繰り返して白濁した意識の中、オレの耳には不気味な笑いがこだまする。

 人を人と思わない、魂を弄ぶ行為は永遠に続いていた。


 ──……あぁこいつは……オレ、だ……。


 棄てる前の玩具をどう扱えば「楽しい」のか、オレはよく知っている。

 壊されていく。棄てられていく。


 ──死にたくない、死にたくない、死にたくない、……だってオレは。

 この世でたったひとりの特別なはずなのに──……。




「醜い人殺しの魂は美しい」

 バックミラーに映る青い目が、雲間に浮かぶ三日月のように嗤い、車はガードレールを突き破って崖の下に落ちていった。


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