第一章 いつもの道でわたしたちは(7)
†
朱理が警視庁猟奇殺人事件特別捜査課に戻ったときには既に夜の十時を過ぎていた。神楽坂課長も、新人の健一も、とっくに帰ったようだ。朱理は真っ暗な室内に一歩踏み入れ、壁のスイッチを探る。パチン、と明かりを点ければ朱理のデスクだけがひどく荒れているのが目立った。様々な事件の捜査資料がぐちゃぐちゃに積み上がっている。
しかし伏せられた写真立ての周囲だけ、穴が空いたように物が無い。
「……もうすこしだ……」
それを一瞥してから、朱理は硬い面持ちで椅子に腰掛けた。乱雑に積まれた資料の中から折りたたまれた地図を引っ張り出して広げる。東京二十三区の地図だ。地図には既に五つの点がうたれ、それらは赤い線で繫がっている。朱理は定規で引かれたその
第一の殺人、第二の殺人、第三の殺人、第四の殺人、第五の殺人──……その中央にトン、と指をあてればそこは港区である。
「あの修理工場、なにか知ってるな……」
どう揺さぶるべきかと考えあぐねたところで
──十五分でいいか……。
壁時計が時を刻む音を聞きながら、肉体に必要最低限の休息を与える。なにも考えない。なにも思わない……。つとめて記憶も感情もシャットアウトして闇の中に浸れば、眠りに誘われる感覚が指先から這ってきた。両腕をだらりと下げ、ただただ壁時計の長針が揺らぐ音を耳に、十五分経過するのを待つ。
『……あなた、今日は早く帰ってきてね』
『わかってるよ』
『真由がケーキを焼くんですって。昨日こっそり材料をお買い物してきたのよ』
『そういうのはサプライズにしてくれよ。驚き
『だってそうでも言わないと早く帰ってきてくれないじゃない、去年だって──』
『わかったわかった、今年はなるべく早く帰るから』
『なるべくって、まったくもう。……いってらっしゃい』
──……十五分、経ったか。
ゆっくり瞼を上げると、蛍光灯が放つ光が黄色く染まって見えた。目頭をきつく押さえれば気のせいだったかのように室内が白く戻る。
濁った記憶の断片に触れて胸焼けがした。──だから眠るのは嫌いだ……、と朱理は苦く思った。
「人を殺す者は──」
唇を薄く開け、地図上の五芒星の中心を見つめる。
「殺される覚悟のある者だ」
朱理は自身の心臓に
カチ、と長針が十時三十分を示した直後、朱理のスマートフォンが鳴った。
「……もしもし、一之瀬です」
電話の主はやや興奮気味にまくしたてた。
朱理は想定の範囲内だと思いながら「はい」「そうですか」と単調な相づちを打った。耳と肩でスマートフォンを挟み、姿勢を正す。緩みかけていたネクタイを締めた。
相手はやけに冷静に受け答えする朱理に疑問の言葉を投げかける。
「いえ、かならずあなたからお電話いただけると思っていましたので」
そう言うと相手は苦笑した。
「ご協力に感謝します、……はい、では……」
東京二十三区の地図に視線を落とす。
──いい頃合いだ。
電話を切ると朱理はふーっと細く息を吐いて、改めてスマートフォンを耳に当てる。何回かのコール音のあとに、相手は眠そうな声で電話に出た。
「俺だ。……あぁそうだ、食事の準備が整ったぞ」
†
連続殺人犯にはパターンが存在する。それはある種、欲望の成功体験に基づくものであり、成功した回数を重ねれば重ねるほどに特徴は色濃く浮き出てくる。
ある犯罪者は黒髪ストレートヘアの女に固執した。
また、ある犯罪者は十代の声変わり直前の少年ばかり狙った。
最初の殺しで快楽の絶頂を知ると、二人目からはそのとき覚えた感覚を追い求める作業に入る。三人目からは被害者の輪郭が「記号」になる。
結果的に、最初に得た達成感と興奮が殺人犯を突き動かすのだった。
最初に殺した人間はどんなヤツだっただろうか。
どんな場所で、どうやって出会って、どのように殺したら気持ちよくなれただろう。
──……よって、オレは、三人目からはどう殺したのかあまり覚えていない。
「また車を擦ったの?」
年老いた母親が料理を作りながら、テレビを見ているオレに話しかけてきた。
「あなたは本当にドジな子ね」
「うん、ごめんねママ」──と、オレは甘えた声で応える。
十八畳の広いリビング。寝転がれる大きな
オレは生まれたときから特別だった。父親は医者で、母親は元看護師。晩婚の両親が不妊治療を繰り返しようやく得た天使がオレで、ひとりっ子のオレは世間から傷つけられないように大切に育てられてきた。お陰で反抗期もなく
勉強は「しなくてもいい」と言われていたので、毎日好きなゲームばかりしていた。学校の成績は良くなかった。大学は二
それはオレがいつも「素直でダメな子」を演じているからだった。
「どうしてこんなにドジなのかなぁ、ごめんなさい……」
我ながら今日も泣きそうな演技がうまいと思う。しょんぼりと肩を下げて落ち込んだ態度を見せれば、母親は手を止めて「いいのよ」と優しく慰めの言葉をくれた。
「いま直してもらってるから、明日には乗れるわよ」
「本当っ? ありがとうママ!」
振り返って満面の笑みを向けた。母親もつられて笑った。
両親とは三十五年間、こうしてうまくやれている。
「もうすぐカレーができるわよ」
「はぁーい」
オレはテレビに向き直って、自分の前にカレーライスが置かれるのを待つことにした。いつもこうして座っていれば食事が運ばれてくるのだ。
「カレーだぁいすき」
そう甘え口調で言いながら、頭の中では最初に犯して殺した女子大生のことを考えていた。
テレビでは十五かそこらのガキが、群れを成してケツを振りながら歌っている。社会を知らない
全員可愛い。だけど、ただそれだけだ。
まるでショーケースに並ぶ人形みたいで、手に取って遊べるような
女は二十歳前後ぐらいで、処女を失っていて、自分はオトナになったと勘違いしている、ちょっと汚れたタイミングが男にとってはちょうどいい遊びの道具だとオレは思う。そういう玩具は、男からなにを求められるのかわかっている。オレがスラックスのベルトに手をかけたとき、自分がどのように壊されるのか「知っている」、そういう女の絶望した顔が最高にイイ。恐怖で震えているのに、男を受け入れる準備ができあがっている身体がたまらなくイイのだ。
少女──ではなく、女──ということが、オレにとっては重要だった。
いまからなにをされるのかわからない小便くさい女なんて興味がわかない。
オレは一度誰かに使われた玩具が好きだ。女という玩具もその例外ではない。
その玩具を壊して、放置する。わざわざ片付ける必要はない。掃除業者がいるように、社会にはそういう仕組みがちゃんとできている。誰かが絶対に片付けてくれるから。
「そろそろ新しい車がほしいなぁ」
「じゃあ週末にでもパパと新車を見に行ってらっしゃいな」
湯気が立ったカレーライスが運ばれてくる。甘口で、野菜抜きだ。
オレは両手をあわせて、にっこりと母親を見上げた。
「ううん、安い中古でいいんだ」
母親はオレが遠慮しているのだと思ったらしく、あやすように頭を
……やっぱり最初の興奮は忘れられないよね。
と、オレは鼻を鳴らす。週明けには新しい中古車のハンドルを握っていた。
二人目のときもそれなりによかったけれど、衝撃は回数を重ねると鈍るものらしい。
寂れた苺農園の脇道をゆっくり走る。夕陽が沈めば、この辺りはすっかり暗くなる。近くにある農業系の大学に通う女子大生たちから聞いて何度も走った道だ。──暗くて危ない「いつもの道」──と耳にして。
オレはその話を聞き、だったら寄り道せずに帰りなよと忠告した。明るいお店には寄っちゃダメだよ、なるべく距離が短くて、暗くてもいいからとにかく早くお
『そうします』──彼女たちは素直に応えた。
彼女たちは大学の講義が終わってすぐに帰れば、必然的に毎週ほぼおなじ時刻にここを通る。オレはその中でも特に遅い時間に帰る玩具を品定めすることにした。それからオレは何度もここを走った。何度もシミュレーションした。
そうしてようやく決めた玩具を狙い、アクセルを踏む足を浮かせた……。
「見ぃつけた」
前方に、僅かな光が蛍のように浮かび上がる。
その光は近づけば徐々に人の形をあらわしはじめ、やがてヘッドライトが自転車をこぐ若い女子の姿を照らした。
緩やかに左にハンドルを傾けながら、バンパーが接触する直前を見極めて、きゅっと右にハンドルをきった。するとオレが運転する車は僅かに尻を振った。
滑るように車体の左側面が女子大生の自転車の後輪に衝突する。
事故としてはたいした接触ではない。自転車に乗っていた彼女が悲鳴をあげる。横倒しになって転んだ。草むらに白い足が沈むのが見えて、思わず舌なめずりする。
「……まだだよぉ……」──衣服の上からやんわりと下半身をさすった。
そのざわざわと湧き上がる興奮を静めるように、ごくんと唾を飲み下す。
オレは表情を変えた。慌ててといわんばかりに車から降りて彼女に駆け寄った。
「ごめんなさい! 怪我はありませんか?」
「あ……、は、……はい……」
いきなりのことに彼女は気が動転し言葉を詰まらせ、
手を差し伸べると、おずおずとオレの手を取った。服についた土埃を払って立ち上がる。動揺を隠せない彼女の目は、後輪が歪んだ自転車に向けられる。オレもすぐにそれに気づいたふりをして勢いよく頭を下げた。
「自転車を弁償します! オレの名前と住所を言いますのでなにかにメモしていただけませんか。あぁっ、オレもメモしなきゃ……ちょっと待ってくださいね、えっと、スマホ……スマホ……」
ぺたぺたと自分の身体を触り、尻ポケットを探るフリをした。
オレが真摯で真面目な男である様子に安心したのか、彼女は背を向けて隙だらけになった。弾け飛んで苺農園が棄てた残骸に引っかかっている
あのときとおなじ。
最初に犯して殺した玩具だ……。
オレは──あの快楽の絶頂を求めて、しゃぶるように彼女の腕を摑んだ。
「その手を離せ」
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