第一章 いつもの道でわたしたちは(9)



 爆発音とともに炎が上がった。

 舞う火の粉が木々を照らすのを見下ろしながら、朱理は額から頰に垂れた血を拭う。

 やがて闇の中で赤々と輝く炎から金色の蠅が一匹飛んできた。


「もっと早く名を言え、我まで燃え死ぬところであったぞ」

「おまえは殺しても死なないだろ」

「ふん、冗談の通じぬヤツよ」


 金色の蠅は朱理の横で、すぅっと金髪の青年の姿に変わる。

 彼は満足げに腹をさすってから唇の端をぺろりと舐めた。


「ん、貴様……怪我をしておるな。治してやろうか?」

「いい。かすり傷だ」


 朱理は黒い手袋を外してそれを額の傷口に押し当てる。


「まったく、痛いであろうに強がりおって、相変わらず可愛げのない。しかしここまで画策せずともいつものようにさっさと殺せばよかったものを」

「たまには事故死に見せかけないと、さすがに怪しまれる」

「面倒なことだな」

「おまえはよくても俺が困る」

「まぁたまにはよかろう。貴様の余興に付き合うのもそこそこ楽しいからな」


 ──楽しい……か。


 朱理は血でれた手袋を上着のポケットにねじ込んだ。身につけているものには岡﨑茂明の車と接触した痕跡が残っている。この手袋はあとで切り刻んで燃やし、ガラス片が付着した服も同様に処分すべきだろう。

 靴はやまのてせん沿線の路上生活者が比較的多い駅のゴミ箱にでも棄てていけばいい。すぐに誰かが勝手に持って行く。靴の処分は目立つから、そのほうがかえって足が付きにくい。……あとは適当にその辺のサウナにでも立ち寄って全身を洗い流せば、朱理の身体からはなにひとつ「接触」の証拠は出ない。


 ──考えることは犯罪者となにも変わらないな……。


 警視庁猟奇殺人事件特別捜査課に電話をかけようとして、ふと朱理は気づく。

 車から転げ落ちた衝撃でスマートフォンに蜘蛛の巣状のヒビが入っていたのだ。


 ──これも接触の証拠になったら困るな。明日にでも買い換えの申請を出すか。


 プライベート用を持っていなくて良かった。もしこれがあのころの思い出が詰まったものだとしたら棄てることに躊躇いを覚えるだろうと思った。


 ──躊躇い、か……。


 朱理は眉を僅かに顰める。


「どうしたシュリ。またなにかごちゃごちゃと考えておるのか」

岡﨑茂明あいつと俺のなにが違う?」


 どこからともなく消防車のサイレンが響いてくる。


「手段が違うだけで、やっていることはおなじ……人殺しだ」

「我から見たら変わらんな。だが人間からしたら大義名分とやらが違うのであろうよ。かつて我に同胞たちをにえとしてささげた人間どもは、その行為を崇高な儀式だと言った。人間と家畜とは魂の重さが違うとも言った。魂を見たことも触ったこともない者どもに、その違いがなぜわかるというのだ。数多あまたの戦争にしろ、殺す行為になにか理由をつけねば人間は『人殺し』という罪の重さに耐えられない生き物なのだろうな」

「理由……」

「人間は『人殺し』が罪であることを知っている。だが不思議と言い訳をつければ罪ではなく『人殺し』はになると先人は遺しておるようだぞ?」


 朱理は無意識に左手でうなじに触れていた。三年半前、妻と娘のなきがらを前に、不意を突かれて切り裂かれたひだりこうけい。朱理の身体に刻まれた唯一の事件の記録だ。癖のように触るたびにえぐられた心の傷の深さを思い出す。


「貴様はその言い訳を忘れたころか?」

「いや……覚えている」

「妻子を殺した殺人者が憎いだろう」

「あぁ、憎い」

「ならば余計なことは考えぬことだな」


 朱理の肩に軽々しく腕を乗せる。露出している首筋に、その細長い指を這わせてきた。チリッと熱い、あの魂が流れ込む感覚が押し寄せてきて、朱理は「やめろ」と、不快を訴えて払いのける。


「それはあとでいい……」


 彼はふぅんと喉を鳴らして赤く燃え続ける炎を見下ろした。


「いまはただ生にしがみついて、殺し続けろ。それが我との約束であろう」

「……おまえの言う通りだ」


 朱理はあの日の復讐のためだけに生きる道を選んだ。


「そう暗い顔で言うな。せっかく我の腹も満ちて、貴様の寿命いのちも延びたというのにな。すこしは生きていることを喜べ。などと……人間が主食の我が言える立場ではないか、ふははっ! 自分で言っておいてなんだが、いま最高に笑える冗談を言ったな!」


 金髪の青年は両腕を組み、大口を開けて笑った。


 ──俺はまだ死ぬわけにはいかない。


 たとえ、妻と娘を殺した犯人をこの手で殺すまでは、なにも考えてはいけない。なにも感じてはならない。憎しみから生まれた復讐の目的が揺らいだらこれまでの殺しはすべて無駄になる。それに……自分が殺してきたのは身勝手な殺人者たちだ──と、朱理は余計な感情を捨てるように小さく首を振った。

 割れて見にくいスマートフォンを操作し、電話をかける。

 しばらくして神楽坂課長が出た。


「一之瀬です。例の女子大生連続殺害事件について、重要参考人・岡﨑茂明に事情を聞こうとしたところ……、はい、えぇ、そうです。逃走されました。状況を説明します。まず場所は──」


 サイレンの音が向こうにも届いたのであろう。事情を察する言葉に遮られた。


「ガードレールを突き破って事故を起こし、車が炎上しています。おそらく死亡しました。えぇ、……接触はありません。このあと署に戻りますので詳しくはそのときに」


 その場を動くなと言われなかったことにあんしながら朱理は電話を切った。

 いつ神楽坂課長らに疑われてもおかしくない。しばらくは派手に動かず、おとなしく署で事務仕事に励むことにしようと思った。


 ──岡﨑茂明は相当な男だった……これならふた月はつか……。


 うなじのある箇所を撫でながら朱理はスマートフォンをポケットにしまった。

 そのとき、指先に自分の血を吸って湿った手袋の嫌な感触がした。

 妻子を殺した犯人にたどりつくのが先か、命が尽きるのが先か、それとも──。


「ベル、先に戻っていろ。くれぐれも見られるなよ」

「言われなくともわかっておるわ」


 腹をぱんぱんに膨らませた金色の蠅がふわりと飛んでいく。

 朱理は上着を脱いでガラス片を払いつつ、暗い夜道を歩き、駅へと向かった。




 ──俺が殺したのは身勝手な殺人者だ。

 殺して、なにが悪い……。そう言い訳を繰り返しながら深い影を踏んだ。









 神楽坂課長が夜食を買いに行ったのを見計らい、佐藤健一は事務仕事を中断した。

 黒い丸バッジをデスク上で弄ぶのをやめ、左手で新しいエナジードリンクを開ける。右手でマウスを器用に動かし、クリックを繰り返した。

 捜査一課時代の一之瀬朱理の勤務態度は至って真面目で、入庁時に撮られた写真と、現在登録されている写真はまるで別人であった。

 二〇××年四月。約一ヶ月の休職を経て、彼は奇特捜に復帰している。

 それ以降、彼が携わった猟奇殺人事件の被疑者や参考人は全員死亡している。

 事情聴取の最中、急に胸の痛みを訴えて亡くなったケースもある。中には今回のような事故死や、ビルから飛び降りて自殺と断定されたケースも含まれる。微妙に死亡状況は違えど、彼が関わるとそこには不気味な死がつきまとっていることは確かだった。


「なにもかも、偶然、っすかねぇ……」


 神楽坂課長が帰ってくる気配がしたので、健一はそっとファイルを閉じた。





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