第一章 いつもの道でわたしたちは(5)


 自動車整備工場の夜は遅く、朝は早い。

 工場長のしぶおかは住み込みの従業員から呼ばれて、またか──と腰をたたきながら工場に出た。既に作業着に着替えてはいたものの、時刻はまだ五時半を過ぎたばかりで、妻がこしらえたしるに口をつけたかつけないかというところだった。


「朝早くから失礼します」


 男の口調は丁寧だが、声には覇気がない。

 半開きのシャッターを押し上げながら、男は先週会ったときと変わらぬスーツ姿で工場に入ってきた。長袖ではすこし暑いくらいだというのに上着を羽織り、ネクタイもきっちり締めている。全身が黒を基調にまとまっているのに暑苦しく見えないのは男の薄暗い雰囲気のせいだろうか。不健康そうだ──と心配になるほど瘦せている男だったが、最初に抱いた印象からさらに瘦せたように感じた。


「警視庁の──」

「一之瀬さんだろ、わかっとるわ」


 男は胸元から警察手帳を出しかけるが、不要だと悟ると戻した。

 渋丘は職業柄、警察関係者と関わる機会が度々ある。ほとんどは交通課や生活安全課の裏取り目的の人間だが、ごくまれに刑事事件がらみのキナくさい捜査目的の人間も工場にやってくる。彼もそのひとりだ。


「具体的にどの事件調べてんのか言ってくれりゃあもうちっと協力する気にもなるけどもさぁ……ほんっと警察は勝手だよ」


 渋丘の大きな文句は男の耳に届いているはずだが会釈しか返されなかった。


「個人情報とかいろいろあるんだろうけどもな」


 やれやれと外履きスリッパを突っかける。

 刑事の口は堅い。そのくせしつこい。どんな事件のなんの捜査をしているのかは絶対に言わないが、こちらが持つ情報のすべてを引き出そうとしてくる。


「しかも協力して至極当然な態度とくりゃあ、情報持ってたって教える気にもならねぇよ。別にアンタをさして言ってるわけじゃあねぇけどさ」


 善良な市民として協力したいのは山々だけれども、仕事の邪魔をされるのには正直疲れた。ただ車の修理をしているだけなのに、犯罪の片棒を担いでいる人間を見るかのようにぎらぎらと睨まれるのも嫌だ。総じて渋丘は警察と名乗る者は嫌いだった。


「アンタうちに来るのは今月で何度目だい」

「五度目です」

「回数をいてんじゃねぇよ。いまのは厭みだ」


 その生真面目な返答に苛立つのが馬鹿馬鹿しくなって渋丘は嘆息する。


「……今日はこすれのあった車両は入ってきてますか?」

「オレぁまだ朝飯も食ってねぇんだけどよ」

「それはすみません。この周辺ではこちらの工場がもっとも朝早くからやっていらっしゃるので。このあと住み込みの工場だと二丁目の○○工場と、総合病院前の××工場の順にまわる予定です。八時からはそれ以外の工場を一気にまわるので……」

「あぁん? アンタ一日でどんだけまわる気だ?」


 渋丘はふと足下に目をやって驚いた。男の足首から上はそれなりに清潔で気づかなかったが、革靴は擦り傷だらけでゴム部分はぼろぼろだ。


「アンタ……どこに住んでんだ?」

「杉並です」

「このみなとに住んだことは?」

「ありません」

「ってことは、住み込みの工場かどうかなんてどうやって調べたんだい」

「訊いてまわりました。公開されている事業情報だけではわかりませんので」

「まさか今日だけで港区の工場ぜんぶまわる気か?」

「昨日はきたいたばししまをまわりましたから、今日は港区を。できれば夕方までにはしぶもまわろうと思っています」

「ひ、ひとりでか?」

「はい」


 渋丘は言葉を失った。いったいその細い体のどこにそんな体力があるのか。

 男は入庫している待機車両のまわりをぐるりとまわりながら、渋丘の質問に淡々と答えていた。

 正気か、と渋丘は青ざめた。ちらりと見えた靴底が限界までっている。この男は短期間に相当な距離を歩いている。明日にでも靴底が割れてしまいそうだった。

 男は手袋をした指で車両の傷をなぞり、黒く汚れたそれのにおいを嗅いだ。


「……違うな」


 と、低い声で呟く。鼻で判断しているのかと渋丘はまた驚いた。

 それから男は頭を垂れて「大変お手数ですが」と、前回と同様の台詞せりふを吐いた。


「車両の写真だろ……好きに見ろ」


 渋丘は奥の棚にさしていた今月のファイルを取って投げた。最近では入庫時の車両の傷をデジカメで撮る工場がほとんどだが、この工場ではフィルムカメラだ。こだわってそうしているわけではないが、誤魔化しが効かないので後々客と揉めないことと、その場で現像できないことを理由にのんびり仕事ができるので変えていないだけだった。

 フィルムが一定数たまるとプリントして保存している。今週分はまだ現像していなかった。そう伝えると、男はまた来るからいまあるだけでいいと言った。

 男は注意深く一枚一枚を眺めては、気に留まった一枚を見つけるとスマートフォンで写真を撮った。ときには顔を近づけ、難しい表情をする──その繰り返しだった。

 渋丘は手持ち無沙汰に腕を組んでいた。することがないので男の頭からつま先まで、じろじろと容姿を眺めていた。朝飯を食べに戻ってもいいのだが勝手に写真やネガを持っていかれても困る……渋丘は見張るていだと言い訳を頭に置いて、男を観察することにした。

 男は見たところ三十代といったところか。おそらく渋丘より二回りは年下だろう。

 そのくせ肌には艶がなく、白髪が多い。若い警察官特有の手柄を取ってやろうと脂ぎった目をしているわけでもなかった。感情のない機械のように、ただ黙々と、冷淡に、濁った瞳を動かしている。……不気味な男だ。なにより、たったひとつの証拠を得るための執念と執着が異常だった。いま捜査している事件に特別なおもいでも抱いているのだろうか。やがて渋丘はふぅと鼻から息を吐き出す。


「アンタいくつだよ」


 尋ねても男は応えない。


「世間話くらいいいだろ。オレぁもうすぐ七十だ」

「……三十一です」──ようやく口を開く。

「なんだ意外とわけぇな。随分と疲れた顔してっから四十手前ぐらいかと思ったぞ。嫁さんに苦労でもしてんのかい?」


 渋丘の冗談はさらっと無視された。あぁそうか、と思って視線を上に向ける。


「いまの若者にそういうことは訊いちゃいけないんだったな」

「三十一歳は……若くはないと思うので、お気遣いなく」

「おぉっと、そっちか」


 予想外な返しをされたので思わず笑ってしまう。気難しい男かと勝手に思い込んでいたが、仕事に対して実直なだけかもしれない。意外な反応に和んだ渋丘の口がつい緩む。


「で、どんな傷を探してんだ?」


 渋丘は長い人生の中で初めて警察官に協力的な言葉を投げかけた。

 男は表情を変えないまま顔を上げた。


「高さは膝から腰のあたり。左前バンパーから左ドアあたりに、タイヤが当たって擦れた跡がある車両の所有者を探しています」

「タイヤ……?」

「自転車のタイヤと接触した傷です」

「そいつぁ見つけんのは難しいだろうな。よほどの神経質でもガソリンスタンドで直してしまいだ。傷ができるたびにこまめに来るヤツぁまれだよ。車検のときについでにやっちまえばいいやって、ずぼらなヤツも少なくねぇよ」

「……その稀な人物を探しているんです」


 渋丘はぱちりと目をしばたたいた。そんなにしょっちゅう修理を頼んでくる怪しい人間がいたら、さすがに警察に一報を入れている。


「思い当たる人物がいましたらご連絡ください。名刺は……」

「前にもらったよ」

「そうでした。お忙しいところ失礼しました」


 起伏のない掠れた声でそう言うと、男は軽く頭を下げて半開きのシャッターをくぐって行こうとした。「おい」と渋丘は思わず呼び止める。男は中腰のまま振り返った。


「なんか目撃証言はねぇのか、車種とかナンバーとか、塗装とかタイヤ痕とかよ」

 男はわずかに眉を顰めて「ないに等しいです」と答えた。

「アンタ刑事さんだよな」

「はい」

「ってことはただの接触事故じゃなくて、刑事事件なんだよな?」

「えぇ、まぁ」──男は躊躇いながらも肯定した。


 男の名刺には猟奇なんとか、と印字されていたのを記憶している。渋丘はそれをふと思い出してきっと相当な殺人事件の捜査なのだろうと解釈した。


「接触事故なら現場にタイヤ痕ぐらい残ってんだろ?」


 すると男はすこし返答に迷ってから慎重に言葉を選んできた。


「五件……すべて塗装もタイヤ痕も違います」

「そりゃあぜんぶ別の人物じゃないのかい」

「いいえ、都内に土地勘のある同一犯による犯行だと思っています。第三者に目撃されにくい時間帯と、場所を把握している可能性が高いです。ですからこうして頻繁に修理工場をまわっています」

「自転車と接触した車両の持ち主ぜんぶ当たるつもりか?」

「車両というよりは、修理に出している回数が多い人物を探しています。たとえば数台車両を所持しているか、家族が所持しているものを乗り回している、ないしレンタカーを使っているか。いずれにせよそれなりに経済的に余裕のある人物……です」


 すこししやべりすぎたと思ったのか、男の語尾が弱々しく消えていく。


「アンタの目的はわかったよ。ったく、最初からそう言やぁいいのに」

「……どうも」──男はばつが悪そうに目を逸らした。

「聞かなかったことにしといてやるよ」

「そうしていただけると……」

「ところでレンタカー会社はまわってんのか」

「はい、都内はすべて。ですがレンタカーの線は薄いかと……」

「まぁレンタカーだと擦ったら警察に届け出を求められるからな」

「おっしゃる通りです」


 渋丘は『五件……』と男が濁した言葉からテレビで報道されている女子大生連続殺害事件を想像した。もし工場にそんな車両が持ち込まれたらたまったもんじゃない。もしかしたら既に持ち込まれているかもしれないと思ったらゾッとした。案外広いようで狭い業界だ。嫌な噂はまたたく間に広まってしまう。


「……待てよ……」


 もしや──と頭を掠めたが、安易に顧客情報を渡すのは工場の信用問題に関わる。

 渋丘は迷った。その迷いを悟った男の目が、いぶかしんで注視してくる。

 幾度か言い出しかけて結局言えず、渋丘は口をへの字に曲げた。


「なにかあればご連絡ください」


 静寂を返事の代わりにした。渋丘の額にじとりと汗が浮かぶ。

 男はやがてはいあおいろに染まりつつある都会に消えていった。

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